外交文書公開で明らかになった秘密書簡と半導体交渉の迷走
2018年12月19日
日米両政府のぶつかり合いが、手書きやタイプ打ちの議事録に生々しい。めくっては赤線を引くうち、強烈なデジャブ(既視感)に襲われた。
1980年代後半、日米が世界市場を争った産業のコメ・半導体をめぐる「貿易戦争」の詳細が、外務省による2018年12月の外交文書公開で明らかになった。そこから浮かぶのは、今のトランプ政権と日本、そして中国とのつばぜり合いを彷彿(ほうふつ)とさせる光景だ。
かつて日米関係を迷走させた秘密書簡として長年取りざたされ、今回ついに開示された「サイドレター」を手に、当時の関係者を訪ね歩いた。
サイドレターは1986年9月、日米半導体協定の署名と同時に、松永信雄・駐米大使と米国通商代表部(USTR)のヤイター代表の往復書簡として交わされた。後々まで禍根を残したのは、「5年間で少なくとも20%を上回る」として、外国系半導体の日本市場でのシェア「20%」が明記されたことだ。
書きぶりは微妙だ。英文の原本を訳すと「20%を上回るという米国半導体産業の期待を、日本政府は認識する」とある。日本政府が保証するとは書いていないが、「20%」の実現を「日本政府は可能と考え、歓迎する」とし、それは外国や日本の業界に加え「両政府の努力による」とした。
米レーガン政権は87年4月、協定を結んでも日本市場の閉鎖性や日本企業のダンピング輸出が変わらないとして、「外国の不公正な貿易慣行」に対する通商法301条を発動。戦後初の本格的な対日経済制裁に踏み切った。日本政府は不当だとして、関税貿易一般協定(GATT)に訴えた。
その衝突の主因がサイドレターだったことが、今回の外交文書公開ではっきりしたのだ。
だが、その頃の朝日新聞をデータベースで調べても、サイドレターに関する記事はほとんどない。86年の協定締結時にサイドレターの存在を日米両政府が伏せたからだ。読者は半導体摩擦の根幹に何があるのかわからないまま、それが日米関係にもたらした異常な緊張を伝える報道に連日、接していたことになる。
作成から30年がたった文書は原則公開という外務省の内規に従い、サイドレターは2018年12月に秘密指定を解除される。これをもとに、1980年代の「半導体戦争」の背景や今とのつながりについて記事を書きたい。そう思って師走の街を歩き回った。
ところが、このくだりは記事の末尾に置かれ、見出しに取られてもいない。なぜなのか……。
船橋氏は当時の記事のコピーを眺めながら、意外な言葉を発した。
「ピンと来てないねえ。ごめん。よく覚えてないんだ。半導体の問題が後であそこまで大きくなるというのは、力不足で察知できていなかった。前の年にドル高是正のプラザ合意があって、取材が通貨一色になったからかなあ」
日米関係に造詣が深い船橋氏に「力不足」はないだろう。それから32年も経って日本政府がようやく公開するサイドレターの中身を、当時すでに書いているのだから。おそらく船橋氏がそこを記事で強調しなかったのは、それほど驚かなかったからだ。
サイドレターが交わされる半年前の86年3月の段階で、朝日新聞には「大手5社、米半導体製品の輸入増確約 国内シェア20%に」という見出しの記事が出ている。ロサンゼルスでの日米半導体業界の協議で「13%から90年に20%に引きあげる」と日本側が約束したという内容だ。同席した通産省(今の経済産業省)も保証したとあり、行政指導で日本の経済成長を支えたと自負する通産省の面目躍如といったところだ。
日本の業界が約束し、通産省もお墨付きを与えたとすでに報道されている「20%」が、政府間で正式に結ばれた協定の付属文書にも努力目標として入った。それを抑えておこうという感じが、協定締結時の船橋氏の記事から伝わってくる。
サイドレターの存在を知る船橋氏は87年春、ワシントン支局員から米国のシンクタンクへ出向。ちょうどその頃に日米の半導体摩擦が再燃する。原因となるサイドレターの存在を両国の政府は伏せ続け、1年後にプレストウィッツ・前米商務審議官が著書でサイドレターの存在を指摘するまで、朝日新聞で「20%」に触れる続報はほとんどない。
では、米政府が対日経済制裁へと突き進んだそのころ、日米間でサイドレターはどう扱われていたのか。経済制裁発動の直前、日米の通商担当次官級による緊急協議に通産審議官として臨んだ黒田真氏(86)を、東京・虎ノ門の事務所に訪ねた。
黒田氏はタフ・ネゴシエーターと呼ばれた当時について、時折笑いながら語ってくれた。
日米半導体協定は、日本市場での外国系企業の販売拡大と、日本企業によるダンピング輸出防止について定めていた。その2分野での対日制裁規模、計3億ドルをめぐり、今回開示された緊急協議の議事録に、こんなやり取りがある。
黒田 米側は右の頰を165回(1.65億ドル)、左の頰を135回(1.35億ドル)たたきたいようだが、なぜその回数でなければならないか根拠をぜひ示してほしい。
スミス (70年代の日米)繊維交渉の際にデータの突き合わせという煩わしい作業をやった。今回やるつもりは全くない。
その対立の根底にあった、協定の付属文書であるサイドレターに記された日本市場での外国系半導体シェア「20%」が、両政府で確認した数値目標にあたるかどうかをめぐる根本的な食い違いだった。
黒田 協定の存続を望むなら理解を共通にする必要がある。間違った期待を前提に協定を続けることはできない。
スミス 結果を約束していないという議論は断固拒否する。1年以上もかけて結果を伴わない協定を作ったわけではない。
協議は決裂した。黒田氏は「20%」をめぐる確執を振り返る。
「増やす方向についてサイドレターでは同意していない。『さっぱり増えないね』『当たり前だ。あんた方がいい物を作れば増えますよ』と。使えない物を輸入して使えって言うのはおかしい。もう海に捨てようかという極端な議論をしていた人もいたし」
ただ、前任者までの日米交渉もふまえ、こうも語った。
「先輩たちは『まあ気持ちはわかるよね』と、向こうの立場で一緒に考えてあげたようで、向こうに(日本はそういう姿勢だという思いが)昂じてきたのがあるんでしょう。私の時に『ちょっと待ってよ』といちいちやっつけてやったんですよ。理屈上ね」
これは裏を返せば、通産省の黒田氏の「先輩たち」と向き合って86年の半導体協定締結に向けた交渉をしてきた米側が、サイドレターを作った時の話と違うじゃないかという理屈で、数値目標へのこだわりを一層強めていたという証言でもある。
では、サイドレターを仕上げた大詰めの交渉とは、そもそもどんなものだったのか。実は、今回の開示文書だけではよくわからない。
その時のことを渡辺氏は8年後、衆院議員として国会質問で明かしている。
「私が通産大臣の時に(外国の)半導体、13%しか日本にシェアがなかったんだが、それを20%にしてくれとヤイターさんがうるさく言った。それはできないが、あんた方が努力すれば、聞いてみるとまだ売れる余地があるから、20%ぐらいになる可能性はここ5、6年の間にあると言ったんだよ」
だが、今回の開示文書では、この会談の報告書に「具体的数字に言及したサイドレターをどのような内容のものとするか調整はつかなかった」「来週若杉―スミスのレベルで協議を継続する」とあるだけだ。2カ月後のサイドレター交換に至る経緯の記録はない。
ここに出てくる「若杉」は若杉和夫・通産審議官だ。渡辺・ヤイター会談に同席し、直後の86年6月に黒田氏がその後任となった。「スミス」はUSTR次席代表で、後の米政府による制裁直前の緊急協議で、黒田氏とやり合うことになる。
黒田氏は今回の取材でサイドレターについて、若杉氏から通産審議官を継いだ時点で「できあがっているわけだ」と振り返った。若杉氏は2016年に世を去っているが、今回の開示文書に、協定とサイドレターへの関わりを示す情報が記されていた。
米政府による制裁発動から3日後の1987年4月20日付で、「条約課(杉山)」が作成した「部内メモ」。「杉山」は制裁発動直前の日米緊急協議に参加した外務省条約局の条約課長補佐で、いま駐米大使の杉山晋輔氏だ。
日米半導体協定に関し「我が方が『約束』していること」として、杉山氏はこう記す。
「米側には、商務省カプラン反ダンピング局長が声を大にして明言したように、『昨年の交渉過程で日本側(若杉通産審議官及び棚橋機械情報産業局次長)は、文章上はいろいろ問題があってこれ位しか書けないが、大丈夫、まかせなさい、必ずcash registerがなるようにする、通産省を信頼してほしい、という趣旨の発言を繰り返したではないか』というperceptionがあることは明らかだ。また、このような事実があったことは否定できない」
「cash registerがなる」。一昔前にスーパーマーケットでよく見かけた、精算のレジになぞらえた表現だ。米国製半導体を日本企業がお買い上げし、チンと鳴るというわけだ。
ただ、外務省で各国との条約をチェックする条約局の中にそうした認識があったのなら、通産省の交渉担当者の口約束で米側が過大な期待をもつかもしれない「20%」を、外務省はなぜ松永大使発のサイドレターに書くことを認めたのか。
実は田中氏は2005年に外務審議官を退官した直後、ジャーナリストの田原総一朗氏と対談した本で当時を語っている。そして、田原氏の「あのサイドレターは田中さんが書いたんですか?」という直球質問には、「……」と沈黙している。
田中氏と東京・赤坂でのある会合で同席する機会があり、単刀直入に聞いた。
田中氏は「私が書きました」と認めた。「通産省の相手方の課長」とやり取りしながらだったという。「サイドレターの文言は日本市場でのシェアを約束するものではなく、日本市場を開く姿勢を米国に示すもので、それは国益に叶うと考えた。条約局をそう説得しました」
80年代半ばのその頃、国際情勢は不透明さを増していた。ソ連では共産党書記長にゴルバチョフ氏が就任し、米国との間で核軍縮交渉が動き出した。他方、日本は世界一の債権国、米国は世界一の債務国になっていた。89年の冷戦終結に向けて動き出す一方で、米国では経済大国として台頭する日本を異質だと叩くジャパン・バッシングが強まっていた。
田中氏の説明はいかにも「らしい」と感じた。米国との関係に関し、日本が「核の傘」をはじめ安全保障の面で頼るという意味での安定を重んじるだけでなく、米国の力を日本の国益のために利用する。田中氏は2001年に外務省でアジア大洋州局長となり、米ブッシュ政権が北朝鮮に対して核開発問題で圧力を強めた間隙(かんげき)をぬって初の日朝首脳会談を実現に導く。その時の振る舞いと重なって見えた。
ただ、半導体問題でサイドレターの原案を書くことを「国益に叶うと考えた」と振り返る田中氏の口は重かった。結果として、「20%」をめぐる確執が日米間の溝を深めたことに、忸怩(じくじ)たる思いを抱いているように見えた。
前述のように、日米両政府はサイドレターを伏せた。88年春にプレストウィッツ・前米商務審議官が著書でサイドレターの存在を指摘した時、宇野宗佑外相は「国際的約束として存在するものは公表された取り決め(協定)だけ」と国会で答弁している。
だが、当時の米側の主張は「日本の取極(協定)上の約束を確定するに際しては、取極に実際に書かれたことに加え、関連文書及び交渉の経緯等を総合的に解すべき」というものだった。日本側がそう理解していたことが、先に紹介した87年4月の「条約課(杉山)」作成のメモに示されている。
この溝が埋まらないまま、5年の期限を経て91年に改定された協定は、サイドレターでの日米の齟齬(そご)を表に出したような内容になった。すなわち、「日本政府は、92年末までに外国系半導体の日本市場でのシェア20%以上という米国産業の期待を認識し、実現されうると考える」。あわせて「日本政府は、市場シェアの保証はしない」と記された。
日米両政府で合意していないことも91年の協定に書けたのだから、86年の協定は合意した内容なので公開し、サイドレターは合意していないやり取りだから非公開にしたという日本政府の主張は苦しい。
世界市場を争う半導体大国の日米が、輸出入に関する数値の入った文書を交わせば、書きぶりがどうあれ自由貿易体制を歪(ゆが)めるという批判は必至だった。実際、数値が入っていない86年の協定に対してすら、欧州共同体(EC)はGATT違反として提訴している。
黒田氏によると、「20%」という数値が入ったサイドレターを非公開にすることは通産省と外務省で協議し、最後は日米両政府で決めたという。
「そういうものをどっかに書きましょうか、しかしみっともない話だ、互いに伏せておこうか、そうだね、というので公表せざるサイドレター。そういうものがあるんですかと(メディアに)その時に聞かれてね。『実はあるんですよ。隠してます』なんて言わないんだよ。あなた方にとっても不存在、僕らにとっても不存在」(続く)
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