藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
外交文書公開で明らかになった秘密書簡と半導体交渉からの教訓
米国は1987年、戦後初の本格的な対日経済制裁に踏み切る。それを招いた半導体貿易での日米両政府の秘密書簡、サイドレターとは何だったのか。「貿易戦争」や「保護主義」が喧(かまびす)しい今日、そこから何を教訓とすべきなのか。当時のキーパーソンらを訪ね歩くうちに輪郭が見えてきた。(上)に続いて報告する。
こうして生まれ、しかも伏せられたサイドレターがその後の日米関係に与えた影響を鑑みる時、そこに様々な教訓があるように思える。米国は今も世界一の経済大国でありながら、貿易赤字は相手国のせいだと経済制裁を振りかざす大統領を選んだ。そんな現代に半導体問題の教訓は一層重みを増すのではないか。
京都御所そばの同志社大学に、大矢根聡教授(57)を訪ねた。国際関係論が専門の大矢根氏は、日米半導体摩擦がようやく落ち着いた90年代後半から日米の関係者に広くインタビューし、著書を2002年に出している先達だ。
そのインタビューの対象には、私が今回取材した船橋氏や黒田氏、田中氏も含まれる。大矢根氏の指摘はそうした諸氏の述懐と相まって、説得力を持って響いた。
私が教訓として受け止めたことは二つだった。まず、自由貿易体制を重んじる立場からみて、二国間の経済摩擦を解決しようと数値に言及することの危うさだ。
日本と米国が半導体問題から学んだことは真逆だった。大矢根氏は語る。
「半導体が焦点となった80年代後半から90年代にかけ、日米経済摩擦の分野と米国の対日貿易赤字が拡大する中で、クリントン政権が93年に誕生する際に対日交渉のレビューをしました。『20%』を掲げた半導体が数少ない成功例とされ、数値目標アプローチとして定着し、自動車部品などに及んでいきます」
「ところが日本では逆のストーリーになる。半導体協定は91年に延長され、96年に終了しますが、自由貿易主義の立場から数値目標には応じず、紛争についてはGATTを継いで95年に発足する世界貿易機構(WTO)で対処するという姿勢を全面に出すようになる。自動車部品での対米交渉も同じでした」