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喜界島のメリークリスマス~特攻花の物語

奄美の島で小学生だった祖母は特攻隊員たちに会っていた

住岡尚紀 明治学院大学生

子どもの頃に潜入した「戦闘指揮所跡」

 「戦争」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、小さい時によく遊んだ「戦闘指揮所跡」だ。

 小学生だった僕はそこが何かよくわからなかった。民家に隣接された頑丈なコンクリートの異様な建物には、入ってはいけない危険な匂いが漂っていた。冒険心を刺激され、僕は何度もそこに潜入した。

拡大戦闘指揮所跡。太平洋戦争末期、現在の喜界空港は沖縄方面の敵艦隊へと向かう特攻機が整備・給油を行う中継飛行場だった。特攻隊員は出撃前にこの「戦闘指揮所」で作戦指示を受けたと言われる=喜界町HPより

 入口は4ヶ所。階段が残っているのは2ヶ所のみ。頑丈なコンクリートの要塞の地下壕は、真夏でも重い雰囲気と少しひんやりした空気が流れる。真っ暗闇のなかに、無造作に置かれた錆びた食器やおちょこを見つけ、一目散に逃げ出したこともあった。

 機関銃で撃たれた跡が残っていた。のどかで平和な島にも数十年前には戦場だったんだ。そう気がついたのはもう少し後になってからである。

拡大喜界島観光物産協会公式サイトより

 喜界島は、本土(鹿児島)と沖縄の中間に位置するため、太平洋戦争中は沖縄防衛の中継備蓄基地と位置づけられた。

 当時の海軍航空基地は1945年(昭和20年)、米軍が沖縄に上陸した後、戦争遂行上の最重要基地として連日連夜にわたり米軍機の猛攻撃を受けた。70年前、祖母がまだ小学校4年の頃、僕が遊んでいた戦争指揮所跡地付近は連日のように空襲にあっていたのだった。

「まだ、あれはまだばあちゃんが4年生だった頃ね。あの当時はほんとに食べるものがなくてね~。海に貝とか海藻を採りにいってたのよ。そしたらね、海の向こうからゴゴオオっちいう音がしたと思ったらね、アメリカの飛行機が低空飛行でばあちゃんのところに飛んできたのよ。ばあちゃんはすぐに岩場に隠れたんだけど、空をぐるぐるずっと回ってね、ゴゴオオっちいう音が近づいてきり離れたり繰り返して動けなくてよ。そしたらだんだん潮が満ちてきて腰ぐらいまで水に浸かってた。結局海に帰って行ったけど。あれはほんとうに怖かったね~」

 小学生だった祖母は、戦争の事を尋ねると必ずこのエピソードを話してくれる。

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筆者

住岡尚紀

住岡尚紀(すみおか・なおき) 明治学院大学生

1995年喜界島生まれ。鹿児島県立喜界高校を卒業後、明治学院大学に入学。2015年に国連ユースボランティアでウガンダ共和国のUNDPに派遣。2016年、内閣府次世代グローバル事業世界青年の船に参加。バイトを4つ掛け持ちしながら俳優業にも挑戦中。中高の社会科と英語科の免許取得を目指し在学中。将来の夢は「島と世界を繋ぐジャーナリスト」。

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