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短命羽田政権から仰天の村山政権へ

平成政治の興亡 私が見た権力者たち(6)

星浩 政治ジャーナリスト

気さくな人柄の羽田孜首相

 閣僚には新生党から熊谷弘官房長官、藤井裕久蔵相ら9人、公明党からは、総務庁長官に就いた石田幸四郎委員長ら6人が起用されたほか、自民党を離党したばかりの柿沢弘治氏が外相に抜擢された。自民党への露骨な揺さぶりだった。

 羽田氏は1935年生まれ。父親は朝日新聞記者から政界に転じた羽田武嗣郎氏。大学卒業後に小田急バスでサラリーマンを経験した。69年に衆院長野2区から初当選し、農水相や外相を歴任した。

 私は新聞記者の駆け出しが長野支局(現長野総局)だったこともあり、長野が地元の羽田氏を取材する機会が多かった。「バス会社では添乗員もやった。東京見物でお客さんと一緒に食べた鰻はうまかったな」と思い出を語っていた。気さくな人柄だった。

 羽田首相は低姿勢だったが、現実の政治は容赦ない。94年度予算案に加え、衆院に小選挙区制比例代表並立制を導入することに伴う選挙区の区割り法案など、懸案が山積していた。自民党は、細川護熙前首相が佐川急便から資金提供を受けていた問題で証人喚問を求めるなど攻勢を強めていた。

「小沢戦略」の背後に北朝鮮の核問題も

社会党の連立政権離脱で羽田首相と会談後の小沢一郎・新生党代表幹事=1994年4月25日拡大社会党の連立政権離脱で羽田首相と会談後の小沢一郎・新生党代表幹事=1994年4月25日
 連立を離れた社会党では、久保亘書記長が小沢氏らとの接触を進めて、連立政権への復帰をめざしていた。一方で、村山富市委員長には、自民党から複数のルートで秋波が寄せられていた。森喜朗幹事長や亀井静香氏が自社共闘を持ちかけ、村山氏とは国会対策委員長同士で懇意だった梶山静六前幹事長も「反小沢」連合を打診していた。

 私は梶山氏から得た「村山擁立」の情報を、あるデスク(朝日新聞政治部には部長の下に6人の次長がいて、「デスク」と呼ばれている)に伝えたが、「自民党が社会党と組むはずがない。お前も連日の取材で疲れているんじゃないか」と相手にされなかった。

 小沢氏は再び、自民党を割る工作に出た。海部俊樹元首相を、連立与党と自民党の一部で首相に担ぐ計画を進めたのだ。小沢氏の判断の背景には、当時の国際情勢も絡んできた。北朝鮮の核問題である。

 核開発を密(ひそ)かに進める北朝鮮に、アメリカのクリントン政権が態度を硬化。北朝鮮の核施設への空爆の準備も進められた。そうなれば、米国が日本にも協力を求めてくる可能性が高い。羽田首相の少数与党政権では動きが取れない。北朝鮮と親密だった社会党を連立政権に復帰させるのは好ましくない。自民党の一部との「保・保連立」が望ましいというのが小沢戦略の狙いだった。

 北朝鮮危機は、カーター元大統領が特使として訪朝し、土壇場で米朝の妥協が成立。武力行使は回避されたが、小沢氏は海部擁立工作で突き進んだ。


筆者

星浩

星浩(ほし・ひろし) 政治ジャーナリスト

1955年福島県生まれ。79年、東京大学卒、朝日新聞入社。85年から政治部。首相官邸、外務省、自民党などを担当。ワシントン特派員、政治部デスク、オピニオン編集長などを経て特別編集委員。 2004-06年、東京大学大学院特任教授。16年に朝日新聞を退社、TBS系「NEWS23」キャスターを務める。主な著書に『自民党と戦後』『テレビ政治』『官房長官 側近の政治学』など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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