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短命羽田政権から仰天の村山政権へ

平成政治の興亡 私が見た権力者たち(6)

星浩 政治ジャーナリスト

衆院本会議場へ向かう羽田孜・新生党党首投票の結果、新首相に指名された=1994年4月25日衆院本会議場へ向かう羽田孜・新生党党首投票の結果、新首相に指名された=1994年4月25日

細川首相退陣。後継首相めぐり混乱する政局

 1994(平成6)年4月8日の細川護熙首相の退陣表明を受けて、政局は連立与党と野党・自民党が入り乱れての混戦状態となる。連立与党内では、新生党代表で外相の羽田孜氏が後継首相に就くのが順当とみられていた。

 しかし、新生党の代表幹事で連立政権を牛耳っていた小沢一郎氏の判断は違った。小沢氏は、自民党に手を突っ込んで、渡辺美智雄元外相を後継首相に担ぎ出そうとしたのだ。

 小沢、羽田両氏は、ともに自民党の田中、竹下派と歩み、93年には自民党を離党した。金丸信氏が二人を「平時の羽田、乱世の小沢」と評していたように、羽田氏は「常識人、穏健派」だった。小沢氏からすれば、自民党と全面対決となっている「大乱世」に「羽田首相」は向かないと判断したのだろう。

 派閥領袖でもある渡辺氏が引き抜かれるのではないか。自民党は大騒ぎとなった。渡辺氏自身も「政策を実現できる政党、グループと連携するのが、原理・原則にかなう」と発言。小沢氏との連携に意欲を見せた。河野洋平総裁は、渡辺氏の対応を批判、首相指名選挙に手を挙げると宣言した。

「派閥の20人程度を連れてこい」

細川護熙首相の後継首相をめぐり、渡辺美智雄元副総理・外相が、自民党を離党して首班指名投票に出馬する意向を表明した。報道陣にかこまれる渡辺美智雄氏=1994年4月17日細川護熙首相の後継首相をめぐり、渡辺美智雄元副総理・外相が、自民党を離党して首班指名投票に出馬する意向を表明した。報道陣にかこまれる渡辺美智雄氏=1994年4月17日
 隠密行動を続ける小沢氏の狙いが、なかなか読めない。連立与党担当のキャップだった私は、困った末に、小沢氏の盟友で新生党幹部の奥田敬和氏に真相をたずねた。こんな解説が返ってきた。

 「小沢はミッチー(渡辺美智雄氏)に派閥の20人程度を連れてこいと言っている。そうしてミッチーを首相にかついだら、自民党は大混乱だ」

 ミッチー擁立は、自民党に衝撃を与えただけでなく、連立与党にも波紋を広げた。社会党が反対しただけでなく、日本新党や新党さきがけからも「小沢氏は盟友の羽田氏擁立よりも、渡辺氏を担いで自民党を揺さぶることを優先するのか」といった不満が出てきた。

 最終的に、渡辺氏は小沢氏との連携や離党を見合わせる。「ミッチー騒動」は収束した。渡辺氏が「20人」を確保できなかったのが大きな理由だった。ある晩、奥田氏と話した。「ミッチー擁立はつぶれて良かったよ。堂々と羽田を担いで自民党と対決すればいいんだ」と話していた。

 渡辺氏はガンとの闘病の末、95年9月に死去した。

統一会派「改新」騒動で少数与党政権に

 小沢氏の自民党分断策は実らず、連立与党は羽田孜外相を首相に推すことで合意。4月25日の衆院本会議で、羽田氏が河野洋平・自民党総裁を抑え、首相に指名された。

 朝日新聞の連立与党取材チームには、「政局も一段落したし、今晩は打ち上げでもしようか」という雰囲気が漂っていた。その矢先、新たな騒動が起きる。連立与党内で国会内の統一会派を作るべきだという動きが急浮上したのである。

 口火を切ったのは、民社党の大内啓伍委員長だった。当面は社会、新生、公明、民社、日本新、さきがけの各党が国会内で統一会派「改新」をつくり、将来的には自民党に対抗する政党にまとめようという構想だった。新生党の小沢一郎代表幹事、公明党の市川雄一書記長の「一・一ライン」も了承済みだった。

 しかし、社会党の村山富市委員長は「新生党などの保守政党とは、理念・政策が相いれない」と反発。社会党は連立離脱を決めた。さきがけの武村正義代表も村山氏に同調した。社会党、さきがけを除けば新生、公明両党などの連立与党は187議席に過ぎず、野党の自民党(206議席)を下回る。羽田政権は少数与党という脆弱な体制でスタートすることになった。

統一会派「改新」について批判が噴出した新党さきがけの議員総会=1994年4月26日統一会派「改新」について批判が噴出した新党さきがけの議員総会=1994年4月26日

気さくな人柄の羽田孜首相

 閣僚には新生党から熊谷弘官房長官、藤井裕久蔵相ら9人、公明党からは、総務庁長官に就いた石田幸四郎委員長ら6人が起用されたほか、自民党を離党したばかりの柿沢弘治氏が外相に抜擢された。自民党への露骨な揺さぶりだった。

 羽田氏は1935年生まれ。父親は朝日新聞記者から政界に転じた羽田武嗣郎氏。大学卒業後に小田急バスでサラリーマンを経験した。69年に衆院長野2区から初当選し、農水相や外相を歴任した。

 私は新聞記者の駆け出しが長野支局(現長野総局)だったこともあり、長野が地元の羽田氏を取材する機会が多かった。「バス会社では添乗員もやった。東京見物でお客さんと一緒に食べた鰻はうまかったな」と思い出を語っていた。気さくな人柄だった。

 羽田首相は低姿勢だったが、現実の政治は容赦ない。94年度予算案に加え、衆院に小選挙区制比例代表並立制を導入することに伴う選挙区の区割り法案など、懸案が山積していた。自民党は、細川護熙前首相が佐川急便から資金提供を受けていた問題で証人喚問を求めるなど攻勢を強めていた。

「小沢戦略」の背後に北朝鮮の核問題も

社会党の連立政権離脱で羽田首相と会談後の小沢一郎・新生党代表幹事=1994年4月25日社会党の連立政権離脱で羽田首相と会談後の小沢一郎・新生党代表幹事=1994年4月25日
 連立を離れた社会党では、久保亘書記長が小沢氏らとの接触を進めて、連立政権への復帰をめざしていた。一方で、村山富市委員長には、自民党から複数のルートで秋波が寄せられていた。森喜朗幹事長や亀井静香氏が自社共闘を持ちかけ、村山氏とは国会対策委員長同士で懇意だった梶山静六前幹事長も「反小沢」連合を打診していた。

 私は梶山氏から得た「村山擁立」の情報を、あるデスク(朝日新聞政治部には部長の下に6人の次長がいて、「デスク」と呼ばれている)に伝えたが、「自民党が社会党と組むはずがない。お前も連日の取材で疲れているんじゃないか」と相手にされなかった。

 小沢氏は再び、自民党を割る工作に出た。海部俊樹元首相を、連立与党と自民党の一部で首相に担ぐ計画を進めたのだ。小沢氏の判断の背景には、当時の国際情勢も絡んできた。北朝鮮の核問題である。

 核開発を密(ひそ)かに進める北朝鮮に、アメリカのクリントン政権が態度を硬化。北朝鮮の核施設への空爆の準備も進められた。そうなれば、米国が日本にも協力を求めてくる可能性が高い。羽田首相の少数与党政権では動きが取れない。北朝鮮と親密だった社会党を連立政権に復帰させるのは好ましくない。自民党の一部との「保・保連立」が望ましいというのが小沢戦略の狙いだった。

 北朝鮮危機は、カーター元大統領が特使として訪朝し、土壇場で米朝の妥協が成立。武力行使は回避されたが、小沢氏は海部擁立工作で突き進んだ。

政治改革を守るために総辞職

 6月23日の予算成立を受けて、自民党は羽田内閣の不信任案を提出。少数与党のため、可決は確実と見られていた。羽田首相は衆院の解散・総選挙か総辞職かの選択を迫られた。

 解散に踏み切れば、政権は当面、延命するが、小選挙区に向けた衆院の区割りが決まっていないため、総選挙は従来の中選挙区制のまま実施される。政治改革が頓挫する恐れが出てくる。一方、総辞職なら内閣は超短命で終わる。羽田氏は迷った。

 私は首相公邸にいる羽田氏に電話した。「俺は政治改革に命をかけてきた。小選挙区制をつぶすわけにはいかん」という反応だった。解散より総辞職を選ぶつもりだった。

 小沢氏ら連立与党の幹部が首相官邸に集まり、協議を続けた結果、6月25日未明、羽田内閣の総辞職が決まった。64日間の短命政権だった。

党議に反した中曽根氏、鈴木宗男氏

羽田内閣の後継を選ぶ首相指名選挙の決選投票で投票する海部俊樹元首相=1994年6月29日 羽田内閣の後継を選ぶ首相指名選挙の決選投票で投票する海部俊樹元首相(左から2人目)=1994年6月29日 
 後継首相をめぐって、政局は一気に緊迫する。小沢氏は計画通り、自民党の海部元首相擁立で勝負に出る。これに対抗して、自民党は社会党委員長の村山氏を担ぐ。当時、衆院議院運営委員長だった奥田敬和氏が「小沢の海部擁立は禁じ手だが、自民党の村山擁立も禁じ手だ」と率直に語ったのを覚えている。

 社会党内では、右派が連立与党復帰をめざして海部支持に動いたのに対して、左派が自民党と村山委員長を推すという構図となった。与野党ともに票読みが続く中、6月29日、首相指名のための衆院本会議が設定された。私は、朝日新聞の連立与党クラブのキャップとして国会記者会館で票読みや解説記事の執筆に追われた。

 本会議に向けて、自民党の大物が、態度を表明した。中曽根康弘元首相だ。自民党は「村山氏に投票」を党議決定したが、中曽根氏は「憲法などの理念や政策が異なる社会党の委員長に投票することはできない」として、海部氏への投票を明言した。しかし、これが社会党に伝わると、社会党内では「タカ派の中曽根氏と同一行動をとることはできない」という反応が広がった。中曽根氏の判断は、結果として村山氏に有利に働いたのである。

 自民党では、こんな出来事もあった。本会議前の代議士会では、議院運営委員会の自民党理事が投票について説明するのだが、この時の説明役は鈴木宗男氏だった。鈴木氏は「みなさん、首班指名は村山富市と書いてください。富市の『いち』は市場の市ですから、間違えないように」と黒板に村山氏の名前を大きく書いた。

 当時、鈴木氏が所属していた小渕派の会長だった小渕恵三元官房長官は、国会の廊下ですれ違った私に「鈴木君が実は怪しい」とささやいた。案の定、本会議の投票で鈴木氏は党議に反して「海部俊樹」と書いたのだった。

「47票差」で村山首相が誕生

 投票が迫る中、私は梶山氏に見通しを聞いた。「一回目では決着が付かず、決選投票で村山が45票差で勝つ」という。自民、社会両党の事務方が懸命に調べた数字のようだった。

 29日午後8時過ぎからの第一回投票では、村山氏241票、海部氏220票。どちらも過半数の253票に達せず、決選投票となった。結果は村山氏261票、海部氏214票。梶山氏の予測に近い「47票差」だった。自民党からは第一回投票で26人、決選投票で19人が、党議に反して「海部俊樹」に投票。社会党では第一回投票、決選投票ともに8人が造反して「海部俊樹」に投票した。

 与野党が入り乱れての本会議決戦を経て、社会党委員長が、自民党に推されて首相に就いた。仰天の結果である。

自民、社会、さきがけ3党による新連立内閣の発足に向け、河野洋平・自民党総裁(右端)、武村正義・新党さきがけ代表(左端)との党首会談に臨む村山富市新首相=1994年6月30日、東京・永田町の国会内 
自民、社会、さきがけ3党による新連立内閣の発足に向け、河野洋平・自民党総裁(右端)、武村正義・新党さきがけ代表(左端)との党首会談に臨む村山富市新首相=1994年6月30日、東京・永田町の国会内

 「禁じ手」合戦の背景は

 この「禁じ手」合戦をどう見るか。

 小沢氏の戦略は、またも「自民党分断」だった。自民党側には、政権与党に復帰しなければ、党がバラバラになってしまうという危機感があった。社会党には、「反自民」の立場から連立与党に戻るべきだという意見と、小沢氏の政治手法への反発とが入り交じっていた。その中で、自民党から村山委員長を首相にという「くせ玉」が投じられ、多数が自民党側になびいた。

 大きな視点で見れば、自民党対社会党という55年体制は、米国対ソ連という東西冷戦の代理戦争だったのだが、本家本元が崩れたのだから、代理戦争の意味は揺らいでいた。55年体制に代わる新たな政治システムをどう構築するのか。小沢氏は非自民勢力から自民党の解体に動いたが、自民党側は社会党に手を伸ばすことで非自民勢力の分断を図った。

真の再生のチャンスを逃した自民党

 自民党は1955年の結党以来、政権与党の座を維持してきた。左右社会党の統一に対抗して自由党と民主党が合同したという経緯もあって、当初は「反共」「健全な自由主義」といった理念・政策を明確にしていた。

 それが、一党支配が続く中で、自民党は「利益配分」のための政党となっていった。財界や官僚との癒着も進んだ。非自民の細川護熙連立政権の誕生で、初めて野党に転落した自民党は存亡の危機に立たされた。得意の「利益配分」ができなくなったからだ。

 本来なら、ここで社会保障や外交・安全保障などの理念・政策を練り直し、保守政党として再出発すべきだった。だが、その作業を怠ったまま、社会党との連携という「禁じ手」で政権に復帰した。自民党にとっては、命拾いではあったが、真の再生のチャンスを逃したともいえるだろう。

 そうした経緯で村山政権は誕生したが、「安定」とはほど遠かった。内外の荒波にもまれて、政権は七転八倒する。

次回は、村山政権の悪戦苦闘と自民党・橋本龍太郎政権の誕生を描きます。2019年1月5日に公開予定。