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韓国「親日派」の末裔は今や親米・親中派である

新しい日韓関係をつくるには、植民地時代の「親日派」に対する歴史的再評価が必要だ

徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

近代「親日派」の登場

 近代における「親日派」については多様に論じられているが、筆者はその始まりを1884年、韓国の進歩開化派の革命である「甲申の変」とみている。

 既にそれ以前の1881年に明治政府の近代化政策を見学するために日本に派遣された「紳士遊覧団」の事例があるが、それは単なる客観的な文物交流の序幕であった。1884年12月、金玉均(キムオキュン)、朴泳孝(バクヨンヒョ)、洪英植(ホンヨンシク)、徐載弼(ソゼビル)、徐光範(ソグァンボム)らが日本公使の支持のもと、政変を起こして進歩改革政権を樹立した。

 しかし彼らの革命は、清(中国)の兵力の支援を受ける保守勢力の巻き返しを受けて挫折する。「甲申の変」で成立した「親日開化政権」は「三日天下」で終わり、その中心勢力である金玉均、朴泳孝、徐載弼、徐光範などが日本に亡命するのである。

 その後、朴泳孝は明治学院と慶応義塾で留学を経験してもいる。そして筆者が、彼ら「甲申の変」の主導者を近代親日派の嚆矢とみなすのは、彼らが日本の力に頼って自らの政治目標を実現しようとした最初の一派であるからにほかならない。

 彼らには少なくとも大義名分はあったし、日本との友好的な関係をベースにして自分たちの国を強く建てようとする心情は見て取れる。

 ところがここに、「日韓併合」のプロセスのなかにあって、私欲に走る「親日派」が登場する。もっとも明らかな事例がいわゆる「乙巳五賊」と呼ばれる人たちである。すなわち1905年のいわゆる「第二次日韓協約」において韓国の外交権がなくなるに際して、日本に積極的に協力した大臣たちで、李完用(イワンヨン)、李址鎔(イジヨン)、朴齊純(パクジェスン)、李根澤(イグンテク)、權重顯(クォンズンヒョン)たちを意味する。

 1910年の「日韓併合条約」では、彼らのなかから李完用が内閣総理大臣として条約の当事者になった。

拡大朝鮮の名士たちの日本軍支援兵支持に関する記事、女性の戦争協力を激励する梨花女子専門学校長の金活蘭(キムファラン)の記事など、『毎日申報』1943年12月26日=筆者提供

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筆者

徐正敏

徐正敏(そ・じょんみん) 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

1956年韓国生まれ。韓国延世大学と大学院で修学。日本同志社大学博士学位取得。韓国延世大学と同大学院教授、同神科大学副学長、明治学院大学招聘教授、同客員教授を経て現職。アジア宗教史、日韓キリスト教史、日韓関係史専門。留学時代を含めて10年以上日本で生活しながら東アジアの宗教、文化、社会、政治、特に日韓関係を研究している。主なる和文著書は、『日韓キリスト教関係史研究』(日本キリスト教団出版局、2009)、『韓国キリスト教史概論』(かんよう出版、2012)、『日韓キリスト教関係史論選』(かんよう出版、2013)、『韓国カトリック史概論』(かんよう出版、2015)、『東アジアの平和と和解』(共著、関西学院大学出版会、2017)など、以外日韓語での著書50巻以上。

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