メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

無料

取材は密告や圧力との闘い

 カビールさんはバングラデシュの首都、ダッカから北西部に車を3時間ほど走らせた街の出身だ。敏腕新聞記者として、政府の汚職や過激派勢力の動きに対し、次々に鋭い記事を執筆し続けていた。「報道の自由やジャーナリストの保護に関しては、全てが日本と真逆だと考えて下さい」と語る通り、取材は密告や圧力との闘いだった。命に危険が及ばないよう名前は伏せて掲載を続けていたものの、カビールさんの情報はやがて密かに、過激派勢力の手に渡されてしまうことになる。殺害を予告する手紙が届くようになり、警察に保護を求めた。ところが警察の汚職を摘発する記事を書くと、その警備がぴたりと止まる。ジャーナリストの活動を守る国際組織である「ジャーナリスト保護委員会」(Committee to Protect Journalists,CPJ)の手を借りながら、しばらくダッカに身を寄せた。

 実は安全を求めて海外へと逃れたのは、日本が初めてではない。1991年に軍事政権が終わり民主化されるまで、6年ほどドイツに滞在していたことがある。だからこそ最初は、ヨーロッパ諸国への渡航を試みた。ところが2001年9月11日に起きたアメリカの同時多発テロから数年が経ってもなお、ムスリムの人々に対する風当たりは強く、ビザ申請は厳しさを増していた。唯一ビザを得ることができたのが、日本だった。

辞書より分厚い証拠書類の束を提出し、ようやく難民認定

 カビールさんは事前に情報を収集し、日本の難民認定がいかに狭き門であるかを知っていた。日本のビザを得てもなお、何とか他国に逃れられる可能性がないか模索した。そうこうしている間にも、自分の居場所がまた突き止められてしまうかもしれない。一刻を争う中で、やむを得ず2005年、単身で日本へと渡航した。難民支援協会の情報もネットで調べていたため、来日して数日後には事務所へと向かい、難民認定の手続きに取りかかる。それが日本でカビールさんが難民認定を得るまでの、複雑で長い道のりの始まりだった。

 来日した翌年、2006年の難民受け入れ状況は、申請者954人に対し、認定者数は34人、これは前年よりも12人少ない人数だった。カビールさんの申請も不認定とされ、弁護士と共に異議申し立てをするのと同時に、不認定処分の取り消しを求める裁判を起こした。

 新聞記者として書いていた記事をはじめ、証拠になりえる書類は数多く残されていたものの、何とかかき集めた大量の文章を、今度は弁護士や支援者たちが日本語に訳していかなければならない。(※注1)やっとの思いで辞書よりも分厚い証拠書類の束を提出し、3年後の009年にようやく認定を得るに至った。(※注2)

※注1:実際の面接は通訳が入るが、もしもその訳が間違ってしまった場合などは、書類との齟齬が生まれ、認定を得るためには不利となってしまう可能性がある。けれどもそのインタビューを録音、録画するための制度は整っていない。

※注2:異議申し立てと裁判を同時並行で行っていたが、異議申立で認定の結果が出たた、裁判は判決が出る前に取り下げた。_

拡大カビールさんの難民申請のために準備した書類の束。(提供:認定NPO法人難民支援協会)

難航した家族呼び寄せ

 ところがほっとしたのもつかの間、カビールさんは更なる壁に突き当たることになる。認められるはずだったはずの家族呼び寄せが、理由も告げられないまま退けられることになる。「妻や子どもたちについて、“彼らは本当に家族なのか?”という疑いまでかけられました。それを証明するために、弁護士さんが現地まで赴き、写真を撮り、持ち帰ってきたこともありました」。

 いつになったら呼び寄せが叶うのか、その日は本当に来るのか、先行きの見えない不安を抱えながらも、故郷にいる家族を自分が支えなくてはならない。これまで記者の仕事に力を注いできたカビールさんは、肉体労働などは不慣れだった。ところが40代の後半に差しかかり、日本語も上手く話せないカビールさんが日本で得られる職は限られていた。「例えば工場で鉄の切断をする仕事は、1センチでも間違えば、指が切れてしまうような危険なものでした。初めて経験する作業ばかりで、常に緊張しながら現場に立っていたんです」。

 インターネットでSkypeなどが活用できるまでは、食費を切り詰めながら家族に国際電話をかけていた。その頃、妻のジョフラさんも子どもたちに危険が及ばないよう、常に神経をとがらせなければならなかったという。「娘たちを学校に一人で行かせたことはありません。日が落ちた後の外出も避けていました」。心配をかけまいと事情を伝えていなかった子どもたちは、「どうして夜、外に出ちゃダメなの?」と反発した。電話越しだけではなかなかコミュニケーションが取りきれないもどかしさが、カビールさんの中にも募っていた。「だんだんと、自分の人生が無意味にさえ思えてしまいました。家族にも会えず、友人もできず、生きがいにしていた、“書く”ということもできなくなってしまったのですから」。

 もう家族と触れ合える日は、二度と来ないのかもしれない。希望が消えかけていた2014年、ようやく家族の呼び寄せの許可が下りた。けれどもそれは、素直に喜べる結果ではなかった。長男は既に成人し、自分の「子ども」として呼び寄せられる年齢を超えてしまっいたのだ。カビールさんが日本に来た当時、長男はまだ15歳。あの当時、あるいは難民認定されてすぐに呼び寄せが叶っていれば、日本で共に暮らすことができていたかもしれない。来日できたのはジョフラさんと、未成年の次女だけだった。

 ジョフラさんは今、団地の棟の責任者の一人でもある。毎週土曜日は責任者同士でミーティングを行い、近所の住人たちと顔を合わせている。ただ、近隣の人々とのつながりは決して濃いものではないという。

拡大日本に来て4年近く。時折英語を織り交ぜながらも、ジョフラさんとの会話はほとんどが日本語だ

拡大ジョフラさんが毎日少しずつ練習を重ねてきた日本語ノート

 今に至るまで支えとなった人々にはもちろん感謝を抱きつつも、カビールさんは今の日本社会をジャーナリストらしい鋭い視点で観察している。「資源が乏しい中でも、これだけ質の高い製品を作り出してきた、世界で唯一の国だと言えるでしょう。夜に街へ女性が
一人で出歩ける治安のよさも、最初は驚きました」。


筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

安田菜津紀の記事

もっと見る