2018年12月23日
平成2年に旧労働省に入省した頃、新人ながら何となく感じたのは役所で一番偉いのは大臣ではなく事務次官だということだった。上司はみんな事務次官室に行く時に最も緊張していた。やがて時が過ぎ去り筆者が役所を去る平成も半ばになると、リーダーシップをとる大臣が話題になってはいたが、裏で支配するのは官僚だとまだまだ囁かれていた。
それからさらに年月が経って、これからは政治家の時代だと言われるようになり、政策決定過程の中心が政権中枢部の政治家(特に官邸)に移っていき、やがてそこからさらに時間が経過した今、もはや誰も官僚を語らなくなった。
今や誰も官僚の存在を意識しなくなったのだ。それは黒衣として舞台裏を回している誇り高き存在だからこそ誰も気付かないというスパイのような話ではなく、本当にどういう役割を果たしているのかわからないというものである。
それほど重要な存在とも思えない。それゆえにこそ不祥事が続発したとしても、かつてのように国民は怒らない。怒って奮起を促すほどの存在でもない。そんなとらえ方をしているのではないか。これこそが「官僚冬の時代」の本質であると、筆者は考えている。
官僚が冬の時代を迎えるに至るまで、その立場の激変を余儀なくされたのは平成年間である。バブル経済が90年代後半に崩壊して以来、間もなく平成が終わるが、冒頭で記したようにこの30年間で官僚の立場は激変した。
官僚主導と言われた時代から、不祥事や経済不調が重なる中で「官僚バッシング」と呼ばれるような強い批判にさらされ、政治の「抵抗勢力」と言われて悪役に祭り上げられた。
たしかに、国家公務員倫理法が制定されるに至るくらい、中央官庁や官僚に不祥事が続出したことは事実であるが、長期にわたる不況から社会保障制度の不安定さまですべてが官僚の責任であるかのように論じるのはどう考えても行き過ぎだった。
その間、バッシングと並行するような形で行財政改革や政治改革が次々と実行に移され、ついに官僚主導体制の打破を掲げる民主党政権が誕生したかと思うと間もなく、内閣人事局で官僚を完全にコントロールする第二次安倍内閣が登場した。これによって官邸主導体制が確立され、政官関係は政治優位で決着した。
依然として官僚優位であるかのような論評をする者もあるが、もはやそれは圧倒的少数派だと言っていいだろう。それほど官僚の地位は激変した。
それでは、その結果、官僚はどういう存在になったのだろうか。ここでは象徴的事例として、政権と一体化した(せざるを得なかった)揚げ句に、国会で責任を追及された佐川宣寿・元財務省理財局長を事例にして考えてみよう。
颯爽と演台まで歩いてきてやや硬直した表情ながらも「交渉記録は破棄しました」と断言し続けた佐川元局長。その背中を頼もしく見つめる総理や官房長官や財務大臣。この対照的な風景をみていると、佐川元局長が闘鶏で、総理などが圧倒的な立場にいる飼い主のようにみえたのは筆者だけだろうか。
関係者には失礼な表現であるとは思うが、あえて言わせていただくと、自らの意思ではなく飼い主の意思で無理矢理闘わされている受け身の姿勢の気がした生物。彼の胸の内に何が去来していたのかは定かではないが、かつての誇り高きエリート官僚の多くも程度差こそあれ、佐川元局長と同じような状況下にあると考えられる。
そうであれば、佐川元局長の胸のうちを探ることは、今現在の官僚の胸のうちを探ることにも通じるのではないか。一体、どんな気持ちで国会答弁に立っていたのだろうか。
まず、総理や財務大臣をかばうことで、覚えめでたき存在になり出世することである。理財局長から事務次官にはなれないかもしれないが、時の最高権力者の覚えめでたき存在になれば将来何かが待っている。あのとき、佐川氏の頭にあったのは財務事務次官や財務省の大物OBではなかったはずだ。
野党への軽蔑である。政権を担った野党は矛盾に満ちている。こんな人間に追及されて真実を話すくらいだったら黙秘する。民主党政権時代を知っている官僚の多くはそんな感情を胸に秘めている。
政権に迷惑をかけられないという自責の念。総理夫人が関連していたとはいえ、必要以上に詳細に記録していた決裁文書という負い目がどこかにあったのか、自分が行動を起こすことで長期政権に傷をつけてはいけない。
ここで迷惑をかければ財務省や財務省の政策にも大きな影響を与える。これから消費税の引き上げが待っている。ここで官邸に恩を売っておくことで消費税は引き上げやすくなる。したたかな財務官僚ならそう考えたかもしれない。
最後は同調圧力に屈した。何となく余計なことは話すなよという雰囲気が霞が関や永田町全体から漂っていて、日々、アルミ缶の中にいるような窒息感だった。
どの要素が最も強かったのだろうか。様々な考え方があるだろうが、はっきりしていることは佐川氏だけでなく、多くの官僚の頭の中から「省」というものの存在が薄くなっていることである。
もちろん、「省」というものを打ち壊し、日の丸官僚を作り上げるのが改革の目標だったことを考えると、これは改革が成功した証ともいえるが、日の丸官僚で輝くことができるのは政権の覚えめでたきごくごく一部の官邸官僚であり、その他大半の官僚は「省」という存在が薄れつつある器の中でアイデンティティクライシスに陥り、自らの役割など考える余裕もないというのが実態だと思われる。
しかも、省を通じて国益や国民を考えてきた官僚にとって、省の存在が薄くなるということは国益や国民の存在が見えにくくなるということも意味している。
官僚の力の源泉でもあり、良くも悪くも、官僚のアイデンティティを作ってきたのは省であり省益である。日本国に採用されるのではなく、特定の省に採用され退職後は関連団体に天下る。その間、
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