国民投票をとことん考える・上
2018年12月28日
「憲法改正を最終的に決めるのは、主権者である国民のみなさまである」
安倍晋三首相は12月10日、臨時国会閉幕にあわせた記者会見で、このように述べた。
決めるのは国民なのだから、国会は論議を急げ。そんな思いがにじむ言葉だ。来年に向け、改憲への意欲を改めて示したということだろう。
ところで、この「決めるのは、主権者である国民」という言葉はほんとうだろうか?
確かに、衆参両院で3分の2の賛成を得て発議したとしても、その先には国民投票が待っている。そういう意味では間違ってはいない。
けれども、国民投票をしさえすれば、「主権者である国民」が決めたことになるのか。国民投票を担当する記者として、折れてしまいそうなくらいに首をかしげているのだ。
それはどうしてなのか。私が感じていることを説明したい。
まず、あるたとえ話を紹介しよう。
学校で、遠足のしおりをつくるとする。そこには「水筒」持参の可否を書くべきだろうか。それとも、書くべきは中身の「飲みもの」だろうか。読者のみなさまは、どうお考えだろう?
このたとえ話を聞いたのは4月、朝日新聞労働組合東京支部が催した講演会でだ。木村草太・首都大学東京教授が示した答えは「飲みもの」だった。「水筒持参可」と書いても、中に入れていいのは水だけか、ジュースやお酒でもいいのか、何も入れてはいけないのかがわからない。それでは意味あるルールにならないからだ。
木村教授はこう指摘した。
「憲法9条に自衛隊だけ書くのは、遠足のしおりに『水筒を持ってきていい』と書くようなもの。ちゃんと中身を書かないと、意味ある改正にはならない」
「水筒」とは自衛隊。中身の「飲みもの」とは、専守防衛に徹するのか踏みだすのかといった、自衛隊の活動内容のことだ。
たとえ話を勝手に補足すれば、いまはこんな状況だろう。
9条を変えたいのなら、2014年に集団的自衛権の行使に道を開く時に試みるべきだった。改憲が発議されれば国民投票が行われ、私たちの手でその是非を決めることができた。ところが首相は、この重い決定を憲法解釈変更でしのぎ、憲法に自衛隊を明記するかどうかを国民に問おうとしている。これではまるで「飲みもの」を勝手に変えた後に、「水筒」を問うようなものではないか。
首相の方針をもとに、自民党憲法改正推進本部がまとめた9条改憲案をみれば、「必要な自衛の措置をとることを妨げず」と記す一方、その自衛の措置とは何かを書いていない。これでは活動内容がどこまで広がるのかがわからない。
これだと、「大事なことは政治が決める。国民に諮るつもりはない」という意思の表れとみるしかない。
確かに、最終的に改憲の是非を決めるのは国民投票だ。
しかし、何を国民に問い、何を問わずに変えるのか。問うとしたらどんな問い方をするのか。すなわち、改憲を発議するのかどうかも、発議する場合の改憲案も、政治の側が決める。だから飲みものの変更を問わず、水筒を問うような、問うべきことの「すり替え」が可能になる。
権力が好きな時に、好きなことを問えるのを権力主導型の国民投票とすれば、国民主導型の国民投票もある。たとえば米国の州やスイスでは、国民が改憲を発議できる。
ほかにも、改憲に国民の意思を反映させている例はいくつも挙げられる。国民を無作為抽出で選んで「社会の縮図」をつくり、どんな改憲が必要なのかを討論してもらう方法。特別の選挙で選んだ人たちで憲法会議をつくり、そこで改正案を起草する方法。2010年に始まったアイスランドの憲法改正作業では、その両方を採用した。
選挙で選んだ人たちが改正案を起草するのなら、議会が起草するのと同じじゃないか。そう思う方もいらっしゃるだろう。でも、そのふたつが持つ意味は徹底的に異なる。
立法権を持つ議会は、憲法によって縛られる権力だ。しかも多くの場合、その多数派は政権を支えており、二重の意味で「縛られる側」にいる。その人たちが「私たちをきつく縛ってほしい」というだろうか?
それよりも、権力行使にかかわらない人たちがあるべき憲法の姿を考えれば、「縛られる側の権力が、自分の縛り方を提案する」という構図を避けられる。それもひとつの知恵ではないか?
ところが、日本の改憲手続きには「国民が改正案の作成に参加する要素がほとんどない」(福井康佐・桐蔭法科大学院教授)。そんな条件のもとで、国会まで幅広い合意形成の努力を放棄してしまえば、とても好ましくない状況に陥る。
自民党はこの秋、憲法改正推進本部の本部長や、衆院憲法審査会の与党筆頭幹事に、首相に近い顔ぶれを据えた。そして与野党合意で進める慣例を破り、会長職権で憲法審査会を開いた。このまま「権力による、権力のための改憲」に突き進むとすれば、決して国民の利益にはならない。禍根を残すのは間違いない。
権力主導型の国民投票には、危うさが付きまとう。
悪い国民投票の例として、しばしば挙げられるのが、ヒトラーやナポレオン、ナポレオン3世らが行った「プレビシット」(人民投票)だ。そこでは、権力主導型の国民投票の危うさが極端なかたちで表れた。
国民の意思を問い、反映させることが「レファレンダム」(国民投票)の目標だとすれば、プレビシットをする指導者にそのつもりはない。自分は国民に支持されているとみせつけるために投票を実施するからだ。
そのため、乱暴なやり方をする時がある。ヒトラーの例でいえば、首相だったヒトラーが大統領を兼ねたり、ドイツがオーストリアを併合したりしたあとに投票を行い、圧倒的な賛成票を集めた。反対者を弾圧し、メディアを指導下に置き、異論を封じたうえでの国民投票だった。これから日本で行われるかもしれない国民投票とはレベルの違う、とんでもないものだ。
ただし、権力が持つ手段は、反対者の弾圧だけではない。
米国の言語学者・哲学者、ノーム・チョムスキー氏(マサチューセッツ工科大学名誉教授)は著書『メディア・コントロール』の中で、全体主義国家や軍事国家が大衆の頭上に棍棒を振りかざすのと、民主主義国家における組織的宣伝は「同じ機能を持つ」と喝破している。
ベトナム戦争の時には、米艦が攻撃を受けたという「トンキン湾事件」。湾岸戦争では、イラク兵がクウェートの病院に押し入り、赤ちゃんを投げ捨てるのをみたという「ナイラの証言」。イラク戦争では、イラクが「大量破壊兵器」を保有しているという疑惑。国民の怒りをあおり、戦争に駆り立てていったそれらはいずれも、うそだった。
宣伝の手法は、うそばかりではない。チョムスキー氏はこうも言っている。
「ポイントは、『われわれの軍隊を支持しよう』というようなスローガンが何も意味していないというところにある……必要なのは、誰も反対しようとしないスローガン、誰もが賛成するスローガンなのだ……そうしたスローガンの決定的な価値は、それが本当に重要なこと、つまり『私たちの方針を支持しますか』という問いから人びとの注意をそらすことにある」
「軍隊」を自衛隊、「私たちの方針」を集団的自衛権の行使と読み替えれば、冒頭の木村教授の指摘と重なってみえないか? 自衛隊を明記する改憲の動きは、人々が受け入れやすい問いを立て、集団的自衛権の行使に道を開くべきか否かという問いから注意をそらすものではないのか?
改憲を国民に問う、その問い方から宣伝は始まっている。どうすれば、冷静に判断できる環境をつくれるか。この点を「国民投票をとことん考える・下」で詳しく論じたい。
「国民投票をとことん考える・下」は29日「公開」予定です。
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