成功と失敗の歴史的事例
ここで日露(ソ)提携の成功と失敗の歴史的事例をそれぞれ見ていくことにしよう。なお成功か失敗かの基準については、あくまでも日露(ソ)提携の安定度に置いており、その他の事象(日韓併合や南進政策など)の成否については、捨象しているということを断っておく。
まずは成功例であるが、日露戦争後の日露協約が挙げられるだろう。日露協約は、1907年7月から1916年7月まで、四次にわたって改定を重ね、満州・蒙古・朝鮮に関する日露両国の勢力範囲を承認したものである。日露協約は改定を重ねるごとに安定的な発展を遂げている。第一次世界大戦が勃発すると、日本はドイツに宣戦布告するかたわら、ドイツ軍相手に苦戦を続けるロシアに対して、大量の軍需物資を供給しただけでなく、第4次協約では、ついに日露同盟が結成されるまでになったのである(ただし仮想敵は中国分割に反対する米国だったが)。
日露協約が成功に至ったのは、第1次協約と相前後して、英露協商も成立していたからだと言える。日本はロシアを仮想敵として、ジュニア・パートナー(軍事力や経済力などの面で明らかに格下の同盟国)の立場から日英同盟を構築し、日露戦争後も引き続き外交の基軸としていた。ロシアもまた日露戦争後に、英国との間で歴史的和解を実現して、対ドイツ包囲のために英露協商を樹立するようになり、露仏同盟とともに外交の基軸としていた。ロシアは英露協商の成立に伴って、英国のジュニア・パートナーである日本との提携をも重視するようになったことから、日本への報復感情を抑えて、日露協約をもちかけるに至った(元老の伊藤博文らが元々日英同盟よりも日露協商を重視していただけに、日本政府にとっても渡りに船であった)。そもそも英露協商の成立なくしては、日露協約の成立もあり得なかったのである。
次いで失敗例であるが、1941年4月に調印された日ソ中立条約が挙げられるだろう。日ソ中立条約は、5年を有効期間として、相互不可侵と相互中立を定めたものである。日ソ中立条約は発足早々から不安定さを露呈している。同年6月に独ソ戦が勃発すると、日本は翌月、ソ連への侵攻を意図して、関東軍特種演習の名の下で、兵力約70万を動員したのである(8月に中止)。その後、日ソ中立条約は、曲がりなりにも維持されたものの、最終的に5年の有効期間内の1945年8月に、ソ連の対日参戦によって破綻に至る。
日ソ中立条約が失敗したのは、その調印の2カ月後に独ソ不可侵条約が破綻して、独ソ戦が勃発したからにほかならない。日本はジュニア・パートナーとしてドイツとの間で、ソ連を仮想敵とする防共協定を結んでいたが、1939年8月の独ソ不可侵条約の締結を受けて、日ソ中立条約の締結へと方針転換した。しかし独ソ戦の勃発によって、日ソ中立条約は、日独同盟との間で大きな矛盾を抱えるようになり、やがてそれに呑みこまれてしまったのである。