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禁じ手「自社さ」村山政権の意義と限界

平成政治の興亡 私が見た権力者たち(7)

星浩 政治ジャーナリスト

社会党の基本政策を次々と転換

 政権発足直後には、村山首相が出席したイタリア・ナポリでのサミット(主要国首脳会議)で、腹痛から緊急入院するというハプニングもあった。7月18日からの臨時国会で、村山首相は、社会党の基本政策を次々と転換。「日米安保体制を堅持する」「自衛隊は合憲」「非武装中立論は役割を終えた」などと踏み込んだ答弁を続けた。

 欧州の社民勢力は、ソ連の人権問題への批判もあって早くから「反ソ連・親米同盟」の路線を選択していたが、日本の社会党は日米安保条約による同盟体制には批判的だった。ソ連型社会主義に期待があったことに加え、「日米同盟では、日本が米国の戦争に巻き込まれる」ことを懸念していたのだ。

 しかし、米ソ冷戦の終焉とソ連の崩壊で、状況は変わった。反米・親ソの路線は行き詰まった。村山委員長の首相就任で、社会党は路線の変更を余儀なくされた。

 社会党は「消費税反対」路線も撤回。9月22日には、自社さの三党が97年4月に消費税率を3%から5%に引き上げることで合意した。「社労族」として福祉問題に取り組んできた村山首相は、社会保障の財源確保には消費増税が避けられないと判断した。自社さ政権は社会保障を重視する「大きい政府」に傾斜していった。

実質「小沢党」の新進党が旗揚げ

衆参214人で発足した新進党。結党大会の最後は、テープが飛び党名を書いた帆布が客席を覆うパフォーマンスで締めくくられた=1994年12月10日、横浜市の国立横浜国際会議場で 
拡大衆参214人で発足した新進党。結党大会の最後は、テープが飛び党名を書いた帆布が客席を覆うパフォーマンスで締めくくられた=1994年12月10日、横浜市の国立横浜国際会議場で
 こうした動きに小沢氏は新党結成で対抗する。新生、公明、日本新、民社の各党に、自民党離党者らで作る自由党、新党・みらいなどが結集。新党の党名は「新進党」に決まった。党首選は海部俊樹、羽田孜の両元首相と米沢隆・民社党委員長による投票となり、海部氏が圧勝、初代党首に選ばれた。幹事長には小沢氏が選出された。実質は「小沢党」である。

 94年12月10日には、横浜のみなとみらいで、結党大会が開かれた。所属する衆参両院の議員は214人。新進党は自民党に対抗する巨大野党として船出した。

 私は結党大会を現場で取材した。派手な演出で盛り上がった半面、議員たちの間からは不安の声が聞かれた。その中身は二つ。経済や安全保障の政策で隔たりが大きく、意思統一ができるのか。そして、小沢氏の政治手法に対する賛否が党内の亀裂を大きくするのではないか。その懸念は、遠からず現実のものになっていく。

 新進党の動きに連動して、社会党内が混乱する。山花貞夫前委員長を中心に、自民党との連立に不満を抱く勢力が「離党・新党結成」を探っていた。山花氏は95年1月16日、新党の前段として、社会党議員らによる国会内会派を結成する方針を表明。17日には国会に届け出ることになっていた。社会党は分裂の危機に追い込まれた。


筆者

星浩

星浩(ほし・ひろし) 政治ジャーナリスト

1955年福島県生まれ。79年、東京大学卒、朝日新聞入社。85年から政治部。首相官邸、外務省、自民党などを担当。ワシントン特派員、政治部デスク、オピニオン編集長などを経て特別編集委員。 2004-06年、東京大学大学院特任教授。16年に朝日新聞を退社、TBS系「NEWS23」キャスターを務める。主な著書に『自民党と戦後』『テレビ政治』『官房長官 側近の政治学』など。

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