メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

日中韓 支配と抵抗のアジア史を超えて

アジア内の序列競争から脱却し、多様性を取り込む新しいアジア観が必要だ

徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

日本のアジア認識「脱亜入欧と和魂洋才」

 最近、日本の副総理の発言が話題になった。いわゆる世界の先進国である「G7」に日本だけが有色人種国家として参加しているという発言だ。その趣旨は、アジアの国として唯一、世界の先進国の列にまじって、政治や経済をリードしている日本のプライドを強調した言葉だと理解できる。

 しかしその深部には、日本はアジアであるが決してアジアではなく、むしろアジアであることを望まないといった感情が込められているとみることができる。そしてそれはまた、近代日本の歴史的な欲望でもあった。

 日本の近代史における近代化の速度は、他には比類をみないものであった。きわめて高速で、強力だった。その目的が、一刻もはやくアジア諸国の前近代性を超克し、西欧諸国と肩を並べることにあったことはいうまでもない。

 当時の大部分の日本の指導者たちのアジア認識は、アジアは後進の地であり、はやく捨て去るべき古い過去の残滓であった。

 しかし一方で、ここには見逃すことのできない日本の内面のアンカーがあった。すなわちそれは、近代化をいくら進めても、そうして西欧の文明をすべて受け入れるとしても、その基底の「魂」、精神だけは日本固有のものを保持しようとする意思である。

 ここで筆者は、これを近代日本とキリスト教の関係から解釈してみたいと思う。いうなれば「近代日本のキリスト教コンプレックス」である。まず筆者の論文の一部を引用する。

 カトリックでもプロテスタントでも日本のキリスト教受容の時期は韓国と比べてかなり早い時期であった。カトリックのイエズス会による近代宣教は中国より日本が先である。
 1549年8月15日イエズス会のフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が九州の鹿児島に到着したことにより日本宣教の基点となったので、韓国より200年以上前である。短い期間でカトリックの教勢が拡張されたが、その後政治的な理由でカトリック弾圧時代になって多くの殉教者が出た。一部はいわゆる「隠れキリシタン」というグループになって地下に潜伏した。
 以降の日本では数百年間、キリスト教は禁教であった。鎖国と禁教の時代、1639年以来、西欧勢力としてはオランダの船舶だけ入港が許されて、長崎の出島での貿易取引があったこと以外にはキリスト教をはじめ西欧文物との接触は一切禁止であった。
 しかし近代以後日本も門戸開放の波高を防ぎとめることはできなかった。1853年のいわゆる「安政条約」で鎖国の閂が解けたし、じわじわとキリスト教に対する禁教政策も解消された。
 そうではあるが、明治維新の勢力を中心にする日本近代化推進グループの大多数のリーダーには、キリスト教は相変わらず警戒の対象として注視しなければならないものであった。キリスト教をはじめとする宗教政策こそが近代日本の対外戦略であり、国内の国民統合のキーポイントだったのである。
 筆者はこの時代以降の日本近代の歴史を「キリスト教コンプレックス」からも読めると思う。まず彼らは近代日本の目標を「脱亜入欧」に見定めた。すなわちアジアから出て、あるいはアジアを乗り越えて西欧化を目指すという意味である。このような近代化政策によって、驚異的な速度で日本は西欧モデルの近代化に進んでいった。
 しかしながらやはりここで一番大きな問題になるのは西欧文明の根本であるキリスト教をどうするかということである。すでに日本はカトリック弾圧の時代よりその弾圧の理由として政治、外交の面から西欧諸国に対する警戒が重要なポイントであったし、キリスト教を禁止することが西欧勢力の侵略より国を守ることであると信じていた。
 半強制的な門戸開放以降やはり西欧諸国の強圧によってキリスト教の宣教の自由は許容したが、依然としてキリスト教は危険なものであるし、キリスト教が日本において蔓延ると結果的に日本は西欧の精神的、実際的支配を受けると恐れていたのである。
 筆者はこのような日本近代の指導者たちの考え方から日本近代史の「キリスト教コンプレックス」を発見できると思う。そしてそのような次第で近代日本のリーダーたちが決定した二番目の目標が「和魂洋才」であった。
拡大日本のキリスト教コンプレックスの象徴である「出島」。プロテスタント国でありながら宣教を自重したオランダの商人だけに交易を許可し、200年以上運営された長崎の人工島である。1996年から復元を開始した出島にある建物=筆者提供

 すなわち近代日本が採用したのは、その魂と精神としては日本固有のものを取って、西欧の文物からは実際的な技術やシステムだけを受け入れるという政策であった。
 これはすなわち対外的な宣言、あるいは近代的な法律や政策としてはキリスト教の信仰、宣教の自由を許すけれど、社会的な認識、隠微な価値観の圧力としてはそのままキリスト教に対するネガティブな雰囲気を維持するという意図であると思われる。
 これを基点として長い間日本の政治、社会の主流勢力とキリスト教の間には対立、葛藤、相互包摂の歴史が続けられた。このような全体的な環境が、日本のキリスト教、特に近代化プロセスと一緒に受容されたプロテスタントの宣教には大きな障壁になった。そのようななかでキリスト教を受け入れたクリスチャンはずっとマイノリティーであったといえる。
 しかしこのような状況が逆に、日本キリスト教の受容者たちのキリスト教に対する弁証力を向上させた。すなわち日本で活動した宣教師たち、あるいは初期の日本人クリスチャンリーダーは日本の歴史的、社会的な特異性の中でキリスト教がもつポジティブな役割について積極的に説得しなければならない動機を持っていたのである。それが神学的談論をより真剣に論議しなければならない契機になったと思われる。(徐正敏、「日本プロテスタントの神学教育の歴史と現在考」、『韓国神学論叢』、韓国神学教育研究院、2017.12)

 拙論のいわんとするところ要するに、近代の日本には、西欧文明の基底にあるキリスト教に対するコンプレックスがあり、その精神に対しては鋭敏な回避をみせながら、一方でアジアからはやく出て西欧諸国のメンバーになろうとしたということである。

 しかし日本のアジア認識についてはさらに注目すべき部分がある。朝鮮の植民地統治から出発し、ファシズムが絶頂をむかえた1930年代末から40年代にかけての「大東亜共栄圏」の実行時期までのアジアに対する認識である。それは日本が盟主となり、アジアはその麾下にあるという関係でアジア太平洋地域を再編し、西欧勢力と対決しようする構図の「アジア観」であった。

 ここには日本とアジアの対等な横軸の連帯接続や、アジアの真の一員としての日本の自意識はみえない。あるのはあくまでも日本とアジアを上下に接続する関係のみであった。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

徐正敏

徐正敏(そ・じょんみん) 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

1956年韓国生まれ。韓国延世大学と大学院で修学。日本同志社大学博士学位取得。韓国延世大学と同大学院教授、同神科大学副学長、明治学院大学招聘教授、同客員教授を経て現職。アジア宗教史、日韓キリスト教史、日韓関係史専門。留学時代を含めて10年以上日本で生活しながら東アジアの宗教、文化、社会、政治、特に日韓関係を研究している。主なる和文著書は、『日韓キリスト教関係史研究』(日本キリスト教団出版局、2009)、『韓国キリスト教史概論』(かんよう出版、2012)、『日韓キリスト教関係史論選』(かんよう出版、2013)、『韓国カトリック史概論』(かんよう出版、2015)、『東アジアの平和と和解』(共著、関西学院大学出版会、2017)など、以外日韓語での著書50巻以上。

徐正敏の記事

もっと見る