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お茶の葉サラダとダンバウ ミャンマー逃れ30年

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

香ばしさが口いっぱいに広がるお茶の葉サラダ(写真はいずれも筆者撮影)

 夕暮れ時、高田馬場駅に降り立つと、繁華街へと出向く人々の群れから「どこに飲みにいこっか?」と楽しげな会話が聞こえてくる。駅周辺では日本の居酒屋だけではなく、各国の言葉で書かれた看板や国旗が目にとまる。とりわけミャンマー料理店が多く軒を連ねているこの辺りは、いつしか「リトル・ヤンゴン」と呼ばれるようになっていた。この日は線路をなぞるように伸びるにぎやかな商店街に店を構える、「Swe Myanmar(スィゥミャンマー)」を訪ねた。

仕事帰りの人々から、飲み会に行く学生たち、親子連れまで、皆楽しげに商店街を行き来していた

 「いらっしゃい」と和やかな笑顔で出迎えてくれたのは、オーナーのタンスエさん(57)だ。キッチンではちょうど、妻のタンタン・ジャインさん(55)が料理の仕込みをしている最中だった。家庭的な温かみのある店内は、すでに香ばしいバターやスープの香りがいっぱいに漂っていた。

タンスエさん(左)とタンタン・ジャインさん(右)。お二人の笑顔にまた会いたい、と常連になったお客さんもいる

前菜として人気の「お茶の葉サラダ」

 まずテーブルに運んで頂いたのは、前菜として人気の高い「お茶の葉サラダ」だ。お茶の葉を漬物にして、色とりどりの豆の揚げ物と一緒に和えたものだ。小エビとナッツの風味が口いっぱいに広がり、かりっとした豆の食べ応えと、しっとりとしたお茶の葉の食感が食欲をそそる。一緒に頂いたお豆腐は、日本で慣れ親しんできたものとは一味違う。「ミャンマーでは大豆ではなく、ひよこ豆を使うのが一般的なんですよ」。お口に合いますか?と気を配りながら、タンスエさんは豆腐のコロッケや揚げ物を次々と運んでくれた。

食欲をそそる揚げ物の盛り合わせ

 メインディッシュはミャンマー風の炊き込みご飯である「ダンパウ」だ。バターなどで味付けしたご飯の上に、じっくりと煮込んだ鶏肉がどんと載せられている。見た目は豪快だが、肉は力を入れなくてもほぐれるほど柔らかく、ご飯もグリーンピースやレーズンなどが混ぜられ、細やかに味付けられている。ここのダンパウが食べたい、とわざわざ遠方から訪ねてくるお客さんもいるのだという。

出来立てのダンバウをタンタン・ジャインさんが運んでくれた

ソースとバターの香りがいっぱいに凝縮されたダンバウ

 初めて来たらしいお客さんに、流ちょうな日本語でメニューを説明している二人の姿は、来日してからの長い年月を思わせた。今に至るまでの、険しい道のりを伺った。

軍事政権下で民主化運動に加わる

 タンスエさんが生まれて間もない1962年、ミャンマーではクーデターが起き、軍が実権を握る政権が誕生した。「例えコーヒーショップの何げない会話であっても、政権に反対するようなことを口にすれば、密告の対象になり、逮捕される。そんな時代でした」と当時を振り返る。自由の無い社会を変えたい、憲法を改正し政治体制を刷新したいと、1988年、学生たちが民主化運動のために立ち上がる。その年の8月8日に決行された、僧侶や公務員、そして一般市民たちも加わっての全国的なデモ、ストライキは「8888民主化運動」と呼ばれている。当時、大学で地質学を教えていたタンスエさんも、「日本のような民主主義国家にしたい」とこの運動に加わった一人だった。ところが民主化運動のうねりは、すぐに激しい弾圧にさらされることになる。軍の発砲などによる死傷者は日を追うごとに増えていき、活動家たちは次々と逮捕されていった。そしてタンスエさん自身にも、その危険が迫っていた。

 万が一のために辛うじて手に入れていたパスポートで、まずは隣国のタイへと逃れた。治安当局がタンスエさんの自宅へと踏み込んでくる5日前のことだった。その後、京都の大学に通っていたミャンマー人の友人の「日本に来ることさえできたら何とか助けられる」という声を頼りに、1989年に日本へとたどり着く。「翌年にはミャンマーで選挙が実施されると聞き、2年もすれば帰れるとばかり思っていました」。それから30年間、一度も故郷の地を踏めずに過ごすことになるとは思いもしなかったという。1990年、30年ぶりに実施された総選挙では、アウンサンスーチー氏が率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝した。けれども軍事政権は、その結果を無視した。

真冬の日本、不慣れな建設現場で働き続ける

 タンスエさんが来日したのは12月、東京の街は経験したこともないような凍える空気に覆われていた。最初の数日はホテルで過ごしたものの、すぐに資金は尽きてしまった。寒空の下、夜は池袋の公園で過ごし、朝になって人々が動き出せば、ビルの中に入って体を温めるという日々を過ごした。

 そろそろお正月、という時期に差しかかると、工事現場の終わらない仕事を片付けるために、日雇い労働の募集がかかるようになった。高田馬場駅近くで朝5時、仕事を求める人々の列に並んだ。「たまたま最初に働いた会社の社長さんが、英語が少しできる人だったんです。働いて2週間も経つと親交も深まり、この仕事の後も続けて働かないかと声をかけてもらったんです」。大学の先生だったタンスエさんにとっては、もちろん建設現場での作業は不慣れな仕事だった。それでも働き続けなければならなかったのは、自身のためだけではない。

 タンスエさんは、タイに逃れる1カ月前に、大学の後輩だったタンタン・ジャインさんと結婚していた。「どうか自分の後についてきてほしい」という言葉を残したものの、当時パスポートを持っていなかったタンタン・ジャインさんにはなす術もなかった。この時タンスエさんが務めていた会社の手助けがなければ、彼女の来日は叶わなかっただろう。

 日本が難民条約に加入したのは、タンスエさんが来日する8年前の1981年のことだ。制度がようやく整い始めたばかりということもあり、日本に逃れてきた人々の中でも、難民申請という概念自体がない人たちも少なくなかった。インターネットが自由に使えたわけでもない。自ら必要とする情報を手に入れるのは、今よりもさらに困難だったはずだ。辛うじてそういった情報を入手できた人々も、日本語も分からなければ法律の知識もない。

 「入管側もミャンマーの現状を把握していなかったのでしょう。難民認定のためのインタビューでは、労働目的で来ているのではと何度となく疑われ、厳しく質問される。その繰り返しでした」。一時は諦めそうになった難民申請だったが、根気強くインタビューに応じてきたのは、日本で生まれた娘を思ってのことだった。保育園への入園ですら簡単なことではなく、子どものこれからのことを考えれば、難民認定を受けて、現状より少しでも安定して日本にいられる立場を得る必要があった。

 「在日ビルマ人難民申請弁護団(1992年設立)」の支援も受け、1997年、タンスエさん夫婦はようやく難民認定を受けることができた。来日してから、すでに8年の歳月が経とうとしていた。

軍政は終わったが、故郷へ帰る道は険しく

 タンスエさん一家が「スィゥミャンマー」をオープンしたのは2012年のことだ。ミャンマーでは、2010年に20年ぶりの総選挙が実施され、その翌年には約50年間続いた軍政が終わりを告げた。長年の夢だった民主化と経済改革への道が拓けたかに見えた。ようやく故郷へと帰れる兆しが見えてきたと希望を抱いたのもつかの間、何度大使館に通っても、パスポート取得の許可は下りなかった。ミャンマーでは軍の影響力はなお強く、民主化といえども道半ばの状態が続いている。途方にくれていた最中、妻の料理の腕を活かせるのではと、お店を開くことになったのだ。

大忙しの厨房は姪御さんも手伝っている

コンロでは、麺料理「モヒンガ」のスープの仕込み中だった

 店内の壁には、おつまみからメインディッシュまで80種類以上のメニューが写真付きでびっしりと貼られている。「でもね、これは日本にいながら手に入る材料だけで作れるメニューなんです。ミャンマーの食材が全てそろえば、もっとたくさんのお料理が提供できると思うんです」。お店の様子を誇らしげに語りながらも、故郷への想いを語るタンスエさんの目は時折遠くを見つめる。

壁いっぱいに並ぶメニューを眺めているだけでも、わくわくとした気持ちが湧いてくる

 30年という歳月の間、帰りたいという思いは常に抱いてきた。来日直後、タンスエさんの自宅に踏み込んだ軍によって、父親は連行され、その後も拘束が繰り返されてきた。日増しに衰弱していった父は、再会が叶わないまま亡くなってしまった。高齢の母のことも気がかりだ。

 けれども2人の子どもたちは、日本社会しか知らずに育ってきた。娘は21歳、息子が14歳、日本の学校に通い、友達は日本人ばかりだ。ミャンマー語は家でしか使わない。パスポートが手に入れば、念願の故郷での暮らしに戻れるかもしれない。けれども子どもたちはそれを望むだろうか。あまりに長い歳月を経てきたからこそ、心は揺れ動く。

 日本が難民条約に加入してから40年近くが経とうとしているが、タンスエさんが来日した頃に比べても、日本の難民受け入れ状況が大きく改善されたとは言い難い。一昨年2017年の難民申請者数は19,623人、うち難民として認定された方はわずか20人に留まっている。2018年に認定された人の中には、認定まで10年を要した人もいた。認定者の人数はもちろん、情報の周知や生活支援、就労資格など課題は山積みだ。

どこに逃れても人間らしくあれる場所作りを

 タンスエさんはこれまでの歩みを振り返りながら、こう語ってくれた。「自由であることがいかに尊いか、少しでも想像してほしいのです。生まれた場所を理由なく離れる人はいません。誰も難民になることなど望んでいません。けれども望まずして家を追われた人たちが、たとえどこに逃れたとしても人間らしくあれるような場所を作り、制度を築いてほしいのです」。

 スィゥミャンマーの「スィゥ」は、「家族」「友達」を意味する言葉なのだそうだ。その名の通り和やかな佇まいのこの店は、今日も訪れる人々を温かく迎え入れる。ミャンマービールを楽しむグループから、仕事帰りに一人で気軽に立ち寄る人まで、お客さんの層は厚い。談笑する人々の姿を見ながら、日本社会そのものが、こうした人々をつなぐ居場所になりえるかが今、問われているように思えた。

お料理はもちろん、タンスエさんたちに会いにまた、このお店の扉を開けたくなる

※この連載の関連イベントを1月31日に開催します。詳しくはこちら。 

(この連載は毎月第4土曜日に掲載します)