メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

軍政は終わったが、故郷へ帰る道は険しく

 タンスエさん一家が「スィゥミャンマー」をオープンしたのは2012年のことだ。ミャンマーでは、2010年に20年ぶりの総選挙が実施され、その翌年には約50年間続いた軍政が終わりを告げた。長年の夢だった民主化と経済改革への道が拓けたかに見えた。ようやく故郷へと帰れる兆しが見えてきたと希望を抱いたのもつかの間、何度大使館に通っても、パスポート取得の許可は下りなかった。ミャンマーでは軍の影響力はなお強く、民主化といえども道半ばの状態が続いている。途方にくれていた最中、妻の料理の腕を活かせるのではと、お店を開くことになったのだ。

拡大大忙しの厨房は姪御さんも手伝っている

拡大コンロでは、麺料理「モヒンガ」のスープの仕込み中だった

 店内の壁には、おつまみからメインディッシュまで80種類以上のメニューが写真付きでびっしりと貼られている。「でもね、これは日本にいながら手に入る材料だけで作れるメニューなんです。ミャンマーの食材が全てそろえば、もっとたくさんのお料理が提供できると思うんです」。お店の様子を誇らしげに語りながらも、故郷への想いを語るタンスエさんの目は時折遠くを見つめる。

拡大壁いっぱいに並ぶメニューを眺めているだけでも、わくわくとした気持ちが湧いてくる

 30年という歳月の間、帰りたいという思いは常に抱いてきた。来日直後、タンスエさんの自宅に踏み込んだ軍によって、父親は連行され、その後も拘束が繰り返されてきた。日増しに衰弱していった父は、再会が叶わないまま亡くなってしまった。高齢の母のことも気がかりだ。

 けれども2人の子どもたちは、日本社会しか知らずに育ってきた。娘は21歳、息子が14歳、日本の学校に通い、友達は日本人ばかりだ。ミャンマー語は家でしか使わない。パスポートが手に入れば、念願の故郷での暮らしに戻れるかもしれない。けれども子どもたちはそれを望むだろうか。あまりに長い歳月を経てきたからこそ、心は揺れ動く。

 日本が難民条約に加入してから40年近くが経とうとしているが、タンスエさんが来日した頃に比べても、日本の難民受け入れ状況が大きく改善されたとは言い難い。一昨年2017年の難民申請者数は19,623人、うち難民として認定された方はわずか20人に留まっている。2018年に認定された人の中には、認定まで10年を要した人もいた。認定者の人数はもちろん、情報の周知や生活支援、就労資格など課題は山積みだ。

どこに逃れても人間らしくあれる場所作りを

 タンスエさんはこれまでの歩みを振り返りながら、こう語ってくれた。「自由であることがいかに尊いか、少しでも想像してほしいのです。生まれた場所を理由なく離れる人はいません。誰も難民になることなど望んでいません。けれども望まずして家を追われた人たちが、たとえどこに逃れたとしても人間らしくあれるような場所を作り、制度を築いてほしいのです」。

 スィゥミャンマーの「スィゥ」は、「家族」「友達」を意味する言葉なのだそうだ。その名の通り和やかな佇まいのこの店は、今日も訪れる人々を温かく迎え入れる。ミャンマービールを楽しむグループから、仕事帰りに一人で気軽に立ち寄る人まで、お客さんの層は厚い。談笑する人々の姿を見ながら、日本社会そのものが、こうした人々をつなぐ居場所になりえるかが今、問われているように思えた。

拡大お料理はもちろん、タンスエさんたちに会いにまた、このお店の扉を開けたくなる

※この連載の関連イベントを1月31日に開催します。詳しくはこちら。 

(この連載は毎月第4土曜日に掲載します) 

       

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

安田菜津紀の記事

もっと見る