平成政治の興亡 私が見た権力者たち(8)
2019年01月19日
1996(平成8)年1月11日の衆院本会議の首相選挙で、自民、社会、新党さきがけが推す橋本龍太郎自民党総裁が、新進党の党首に選ばれたばかりの小沢一郎氏を退けて新首相に選ばれた。自民党の田中、竹下派でライバルとして競い合ってきた二人は、与野党に分かれて対峙(たいじ)することになった。
橋本氏は1937年生まれ。大蔵官僚から政界に転じた父・龍伍のあとを継いで1963年に衆院初当選。社会保障政策に通じ、大平正芳内閣の1978年には厚相に就いた。自民党の行財政調査会長を務め、行財政改革をライフワークにしていた。
世間の注目を集めたのが宇野宗佑政権で自民党幹事長を務めた時だ。1989年の参院選では、不人気だった宇野首相に代わって全国を飛び回り、そのさっそうとした姿もあって「龍様ブーム」を呼んだ。その後、蔵相、通産相と主要閣僚を経験した。
私は、橋本氏が竹下政権で安倍晋太郎幹事長の下の幹事長代理を務めていた時に担当となり、幹事長の時も全国遊説に同行して取材した。群れずに孤独を楽しむ、「キザ」という言葉が合う政治家だった。
橋本首相は、政権の要である官房長官に梶山静六元自民党幹事長を起用した。幹事長経験者が、首相の下で働く官房長官に就くのは極めて異例で、「大物官房長官」梶山氏の差配が注目された。幹事長は加藤紘一氏、政調会長は山崎拓氏がそれぞれ続投。梶山氏と共に政権を支えることになった。
橋本政権がまず、迎えた関門が「住専問題」だった。
小沢氏率いる新進党は「税金の無駄遣いだ」と強く反発。96年3月には、住専処理を盛り込んだ予算案の可決を阻止するために、国会議事堂の3階にある衆院予算委員会の部屋の前に議員たちが座り込んだ。
最終的には梶山氏らが与野党の歩み寄りを模索。①住専の予算は制度を整備してから処理する②住専論議のための特別委員会を設置する、などの点で折り合った。約20日間続いた新進党の座り込みは解除され、公的資金の投入も実現することになった。しかし、バブル崩壊に伴う痛手は住専にとどまらず、橋本政権を苦しめ続ける。
橋本首相は、当時の林貞行外務事務次官に「普天間を動かしたい。知恵を出せ」と指示。林氏は北米局審議官だった田中均氏に「やってみろ」と米側との交渉を命じた。田中氏は米国防総省のキャンベル次官補代理(東アジア担当)と密かに折衝を重ねた。
宜野湾市の市街地にある普天間飛行場の危険性については、米国内でも問題視されていた。3月、田中氏は「沖縄県内への移設なら可能」という手応えを得て、橋本首相に報告した。4月12日、日経新聞が「普天間5年以内に返還」をスクープ。同日夜には橋本首相とモンデール駐日大使が記者会見して「5~7年以内の返還」を発表した。
沖縄の基地問題の大きな前進である。ただ、その後、沖縄では普天間飛行場の移設をめぐって対立が続いた。名護市辺野古への移設が決まったものの、県内移設への反対は根強く、新基地完成までの道のりは険しい。橋本首相は「返還」を打ち上げたのだが、現実には「移設」だったことも、沖縄の失望の一因となっている。
日米安保体制は従来、日本の防衛について「日本が基地提供というコストを負担し、有事には米国が軍事行動をとるリスクを負う」といった補完関係を維持してきた。しかし、冷戦が終わり、ソ連の脅威がなくなった中で、米国が「共産主義に対する橋頭堡(きょうとうほ)としての日本を守る」意味は薄らいでいた。
かといって米国が日本を含めた東アジアから撤退すれば、中国の台頭などで東アジアの情勢はむしろ不安定になる。米国を引き留めつつ、安全保障面での日本の役割を拡大する方策は何か――。田中氏や米国のジョセフ・ナイ国防次官補ら日米の外交・安全保障担当者が知恵を絞ったのが、この安保共同宣言だった。
しかし、安全保障に関する日本の関与が、日本国内や極東にとどまらずアジア・太平洋全体にも及ぶという姿勢は、その後の自衛隊の海外派遣に道を開くことになる。日本の安全保障の変質につながることは、橋本首相さえ覚悟していなかった。
永田町では、前回衆院選(93年7月)から3年が過ぎ、与野党とも小選挙区比例代表並立制という新たな選挙制度の下で初めての選挙の準備に入っていた。橋本首相は、9月27日に召集された臨時国会の冒頭で衆議院を解散。10月8日公示、20 日投票となった。
自民党対新進党という二大政党の対立構図が定まりつつある中で、「第3極」が動き出した。解散の翌日、東京都内で結党大会を開いた民主党。新党さきがけにいた鳩山由紀夫、菅直人両氏の二人が共同代表となり、自民、新進両党の間に割って入る構図となった。民主党には、社民党(96年1月に社会党から党名変更)やさきがけから、前衆院議員52人と参院議員5人の計57人が参加。ただちに選挙活動に入った。
総選挙では省庁再編が大きな争点となった。橋本首相が「22省庁の半減」を打ち出したのに対して、新進党は「22省庁をまず15省庁に整理し、最終的には10省に再編。国家公務員は25%削減する」と公約。また、消費税については、自民党が予定通り97年4月から3%を5%に引き上げると訴え、新進党は3%に据え置くとした。引き上げを決めた94年、村山政権時に与党にいた議員が多い民主党は、「引き上げはやむを得ない」との態度だった。
総選挙(選挙区300、比例区200の計500議席)の結果は、以下の通り(カッコ内は議席の増減)
自民=239(28増)▽新進=158(4減)▽民主=52(増減ゼロ)▽共産=26(11増)▽社民=15(15減)▽さきがけ=2(7減)▽民主改革連合=1(1減)
自民党は過半数(251)には届かなかったものの、第一党の座を守って政権を維持し、社民、さきがけとの連立も続くことになった。政権交代を訴えた新進党は伸び悩んだ。
「これは歴史的勝利だ。消費税を上げると約束した自民党が、上げないと言う野党、新進党に勝ったのだから。自民党はポピュリズム、人気取り政治に勝利したわけだ。そして小沢が選挙に強いという神話も打ち破ったよ」
幹事長として取り仕切った総選挙を乗り切ったという高揚感にあふれていた。加藤氏のその後の歩みを考えると、この頃が政治家としての絶頂期だったといえる。
第2次橋本内閣の発足に向けて、自民、社民、さきがけは連立協議を進めた。その結果、社民、さきがけは、政権にはとどまるものの閣僚は出さない「閣外協力」となった。自民党にとっては3年ぶりの単独内閣だが、単独では衆院で半数を割り込むという不安定さをかかえたスタートとなった。
橋本首相は行政、経済構造、金融システム、財政構造、社会保障の5大改革を打ち出し(後に教育を加えて6大改革に)、政策の具体化に入った。一方、梶山官房長官は「俺は省庁削減などの組織いじりに関心はない」と公言し、与謝野馨官房副長官と共に財政構造改革による財政再建を進める。中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一、村山富市各氏ら歴代首相を集めて「財政構造改革会議」を新設。97年1月21日に初会合を開いた。首相官邸の権限に首相経験者の権威を加え、実務は大蔵省主計局が担った。
同会議は6月に最終報告をまとめ、閣議決定にこぎ着けた。①1998~2000年の3年間を集中改革期間とする②3年間で公共事業は15%削減する③社会保障費の伸びを2%以下にとどめる、などが柱。歳出カットに抵抗する自民党の族議員を押さえ込み、財政再建への道筋を示した点では意義のある内容だった。
問題は、佐藤孝行氏を総務庁長官に起用したことだった。佐藤氏は1976年のロッキード事件に絡んで受託収賄容疑で逮捕、起訴され、有罪が確定していた。佐藤氏が長く仕えてきた中曽根康弘元首相の要請を橋本首相が受け入れた人事だが、想像を超えた反発を招いた。野党だけでなく、連立与党を組む社民党からも批判が噴出し、佐藤氏は9月22日に辞任した。
梶山氏が閣外に去ったことも政権を揺るがせた。梶山氏は中曽根氏ら自民党の保守系勢力と共に新進党の小沢党首との連携を探る「保・保派」で、社民、さきがけとの協力を重視する加藤氏ら「自社さ派」と対立してきた。橋本首相は両勢力の均衡の上に乗っていたが、そのバランスが崩れ始めたのである。くわえて、佐藤氏の辞任劇は大衆人気が売りだった橋本首相が、民意と離れてきた実態も映し出した。
この内閣改造では、小渕派の会長で橋本氏と同期の小渕恵三氏が外相に起用された。小渕氏は、外務省の事務当局が米国への配慮から難色を示していた対人地雷禁止条約の署名を決断。「日本は米国に気兼ねせず、独自の判断をすればよい」と平然と語るなど、存在感を見せていた。
橋本首相が政権の勢いを取り戻すために取り組んだのが、「省庁再編」という行政改革だった。首相官邸の権限を強化するとともに、1府21省庁を1府12省庁に再編するのが柱だ。
具体的には①首相官邸直属の内閣府を新設②建設省、運輸省、国土庁を国土交通省に統合③厚生省、労働省を厚生労働省に統合④自治省、郵政省を総務省に統合④大蔵省を財務省に改名、といった内容だ。各省庁や自民党の族議員には抵抗もあったが、橋本首相が押し切った。
関連法案は1998年2月に国会に提出され、6月に成立した。自民党の行財政調査会長を長く務め、「行革のプロ」を自任していた橋本首相の本領が発揮された。
梶山氏は、政権に復帰した自民党が大胆な改革を打ち出して実践すべきだと思っていたのに、橋本政権ではかなわなかったと、自責の念を込めてこう振り返っている。
「政権に復帰した自民党には、万年与党時代の最も悪い部分の癖が出た。ハードランディングを嫌い、その場その場の対症療法でお茶を濁そうという悪癖である」(注 梶山2000 P16)
大胆な経済改革に踏み出さず行革に邁進(まいしん)する橋本政権と、経済再建や景気回復を求める時代の要請とのズレがじわじわと広がっていた。それが98年夏の参院選の民意で示されることになる。
(注)梶山静六『破壊と創造 日本再興への提言』(2000、講談社)
話は前後するが、橋本政権の下で最大の「危機管理」はペルー大使公邸人質事件だった。1996年12月17日(日本時間18日)、南米ペルーの首都リマにある日本大使公邸を武装グループが襲い、青木盛久大使ら約600人を人質にして立てこもった。天皇誕生日の祝賀パーティーを狙った犯行だった。
人質は段階的に解放されたが、青木大使ら72人が残された。武装グループは刑務所にいる仲間の解放などを要求したが、ペルーのフジモリ大統領はこれを拒否。緊迫する中、折衝が続けられた。
結局、事件発生から127日後の97年4月22日、ペルー軍の特殊部隊が公邸に強行突入して制圧。人質は全員無事、解放された。
同じ頃、野党は混迷を深めていた。96年10月の衆院選で伸び悩んだ新進党は解党の道を歩んだ。小沢党首の政治手法に対して、羽田孜元首相らが「独断専行」と批判。12月には羽田氏や奥田敬和元自治相、熊谷弘元官房長官ら衆参の議員13人が離党して太陽党を結成した。その後も新進党内の対立は続き、97年12月18日には党首選で対立候補の鹿野道彦氏を退けた小沢党首は27日、突然「解党」を宣言した。
小沢氏としては、政権交代可能な勢力をめざしたが、めどが立たないため、新たな枠組みを作るのが得策と判断したのだろう。党内は大混乱し、小沢氏らは自由党、鹿野氏らは「国民の声」を結成。公明党出身者は「新党平和」と「公明」などに分かれた。その後、鹿野氏らは羽田氏らと「民政党」をつくり、98年4月には鳩山、菅両氏が率いる民主党に合流する。
自民党に対抗する勢力としてスタートした新進党は、わずか3年で消滅し、民主党が二大政党の一翼を担うようになってきたのである。
次回は、橋本政権に代わって登場した小渕政権の苦闘を描きます。2月2日公開予定。
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