メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

無料

火だるま行革に突き進んだ橋本政権の成果と挫折

平成政治の興亡 私が見た権力者たち(8)

星浩 政治ジャーナリスト

最初の関門となった「住専問題」

 橋本首相は、政権の要である官房長官に梶山静六元自民党幹事長を起用した。幹事長経験者が、首相の下で働く官房長官に就くのは極めて異例で、「大物官房長官」梶山氏の差配が注目された。幹事長は加藤紘一氏、政調会長は山崎拓氏がそれぞれ続投。梶山氏と共に政権を支えることになった。

 橋本政権がまず、迎えた関門が「住専問題」だった。

住専処理のための予算の削除を求める紙を掲げ、第一委員室前で座り込みを続ける新進党議員(向こう側)=1996年3月5日、国会内で拡大住専処理のための予算の削除を求める紙を掲げ、第一委員室前で座り込みを続ける新進党議員(向こう側)=1996年3月5日、国会内で
 1980年代後半のバブル経済の最中(さなか)に住宅融資専門会社(住専)が乱立、中央省庁から多くの官僚が天下った。90年代になってバブルが崩壊すると、住専は多額の不良債権を抱えたが、住専には農林関係の公的金融機関が多額の融資をしており、破綻すれば、農林関係をはじめ深刻な影響が出る。そこで、住専に公的資金という名の税金を投入して救済しようということになった。村山富市政権が編成した96年度予算案には、住専救済策として6850億円が計上され、橋本政権が引き継いだ。

 小沢氏率いる新進党は「税金の無駄遣いだ」と強く反発。96年3月には、住専処理を盛り込んだ予算案の可決を阻止するために、国会議事堂の3階にある衆院予算委員会の部屋の前に議員たちが座り込んだ。

 最終的には梶山氏らが与野党の歩み寄りを模索。①住専の予算は制度を整備してから処理する②住専論議のための特別委員会を設置する、などの点で折り合った。約20日間続いた新進党の座り込みは解除され、公的資金の投入も実現することになった。しかし、バブル崩壊に伴う痛手は住専にとどまらず、橋本政権を苦しめ続ける。

就任早々に合意した「普天間返還」だが……

普天間飛行場の返還問題について記者会見する橋本龍太郎首相。右はモンデール駐日米大使=1996年4月12日、首相官邸 拡大普天間飛行場の返還問題について記者会見する橋本龍太郎首相。右はモンデール駐日米大使=1996年4月12日、首相官邸
 橋本首相は就任早々、沖縄問題に着手した。前年に起きた少女暴行事件で、沖縄の反米軍基地感情はかつてない盛り上がりを見せていた。沖縄の基地負担の象徴とも言える米軍普天間飛行場の返還はできないか。1月に米・カリフォルニア州のサンタモニカで行ったクリントン大統領との首脳会談で首相は「普天間返還」を持ちかけたが、米側は明確な返答を避けていた。

 橋本首相は、当時の林貞行外務事務次官に「普天間を動かしたい。知恵を出せ」と指示。林氏は北米局審議官だった田中均氏に「やってみろ」と米側との交渉を命じた。田中氏は米国防総省のキャンベル次官補代理(東アジア担当)と密かに折衝を重ねた。

 宜野湾市の市街地にある普天間飛行場の危険性については、米国内でも問題視されていた。3月、田中氏は「沖縄県内への移設なら可能」という手応えを得て、橋本首相に報告した。4月12日、日経新聞が「普天間5年以内に返還」をスクープ。同日夜には橋本首相とモンデール駐日大使が記者会見して「5~7年以内の返還」を発表した。

 沖縄の基地問題の大きな前進である。ただ、その後、沖縄では普天間飛行場の移設をめぐって対立が続いた。名護市辺野古への移設が決まったものの、県内移設への反対は根強く、新基地完成までの道のりは険しい。橋本首相は「返還」を打ち上げたのだが、現実には「移設」だったことも、沖縄の失望の一因となっている。


筆者

星浩

星浩(ほし・ひろし) 政治ジャーナリスト

1955年福島県生まれ。79年、東京大学卒、朝日新聞入社。85年から政治部。首相官邸、外務省、自民党などを担当。ワシントン特派員、政治部デスク、オピニオン編集長などを経て特別編集委員。 2004-06年、東京大学大学院特任教授。16年に朝日新聞を退社、TBS系「NEWS23」キャスターを務める。主な著書に『自民党と戦後』『テレビ政治』『官房長官 側近の政治学』など。

星浩の記事

もっと見る