なぜ「かわいそうな」状況に陥っているのかという社会の構造に目を向けて
2019年01月28日
私は頼むことが苦手。他人に迷惑をかけると思うからです。日韓境界人と自称している私ですが、「頼む頼まれ」「助け助けられ」においては全くの「日本側」だな、と思います。
私は多文化家庭のバドミントンサークルで、毎回鍵を開けなければなりません。ある時、仕事で遅くなり、バドミントンのオンニ(언니:知り合いのお姉さん)にそのことを気兼しながら伝えると、「ああ、私がやっておくから、ゆっくり仕事をしておいで。気を付けてね!」と即答されました。
それだけで涙が出そうになります。私はとにかく頼むことが苦手なのです。
でも考えてみれば、経済的に厳しい環境で育った私は、人に甘えるという事を知らず、何でも自分でできるように育てられたんですね。浪人の時などは、塾は「タダ予備(進学率の高い高校に通っている生徒はタダで通える中規模の塾)」で、塾の教科書代、電車賃、お弁当代、次の受験の願書代なども全部自分のアルバイトで稼ぎ、このうちの一つでも出して貰おうかなどという考えすら起こりませんでした。
助けてほしい状況でも、自分でなんとか凌ぐ! これしか知らなかったんですね。「甘え上手」という言葉がありますが、私には縁の無い言葉で今でも羨ましく、平和だなという感じがします。
さて、そんな私に、ご近所さんたちは、キムチや畑の収穫物、そしてバザーに行って来たと言っては、色々とお裾分けしてくれます。昨年からは、とうとう近所のおばさんのススメとプロデュースでキムジャン(11、12月頃、韓国では家庭ごとに自分たちが一年間食べるキムチを一気につける行事)まですることになりました。
また、仕事で非常事態が起きると、一日中、子どもを預かってくれたりもします。小さいことから大きなことまで、大なり小なり貰ったり助けられたりすることが多いなと思います。そして、その都度私は、申し訳ないと思い、毎回「お返し」をするのですが、相手は、それが少し負担のようです。
礼儀正しいというよりかは、いつになっても私から距離を置かれてるようなそんな気がすると言っておられました。ま、でも、今は私のそういう部分にも少し慣れてくれたみたいですが……。
私の遠慮がちな性格は、貧しかった生い立ちもあるかも知れませんが、根本的に日本と韓国のコミュニケーションの方法が違うのでは?とも思います。
韓国では「情」という言葉をよく使います。「情の多い人」とか「あの人は情があるね」という言い方をします。「情がない人」というと、日本語では薄情な人、冷たい人という感じになります。
この韓国の「情」は、社会学、文化人類学、民俗学、文学等々の分野では、お馴染みの研究素材としてよく取り上げられ、それだけ「情」が韓国の人を理解するキーワードなんだという事が分かります。私なりの解釈ですが、「情」は「共感して情けをかけること」と言う風に考えています。
だからなのか、今日もオンニが、これから炊き出しの奉仕活動に行くと言っていました。韓国では、クリスマスやお正月などが近づくと、お米や日用品などを福祉団体に寄付するという光景もあちらこちらで見られます。娘の水泳教室がある公営の体育センターでは、大きなお米の袋に寄付者であるインストラクターの名前が書かれて並べられていました。
また、娘の小学校の通知表には「奉仕活動」という欄があります。どれだけの奉仕活動をしたのか記入する欄です。私も人に連れられて、一緒に奉仕活動をしたり、寄付したりすることが多くなってきました。
何らかの宗教を持っている人が多い韓国では、各々の宗教団体での奉仕活動も珍しくありませんが、知り合いのオンニのように宗教を持ってなくとも行動する人は少なくありません。寄付や奉仕活動がお裾分けの延長上にある、オンニも「情のある」人だと言えるでしょう。
しかし、物事は表裏一体! 良い面もあれば悪い面もあります。情が多いからこそ、国は庶民の情に頼ってはいけません。
韓国では一昔前、繁華街に行くと、物乞いをする人たちがいました。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください