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「平成デモクラシー」の意義と限界

政体論の復権の試み:天皇制と「平成デモクラシー」を考える(前編)

河野有理 首都大学東京法学部教授

 「55年体制」とは何だったのか

 「政体」「憲政」「この国のかたち」が変化したとは、具体的にはいかなることか。筆者が念頭に置いている変化について、「55年体制」から「平成デモクラシー」へ、というキャッチフレーズによって、まずは説明したい。

自由民主党の新党結成大会。壇上には鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉、大野伴睦4代行委員、岸信介幹事長らが並び、背景には立党宣言が張られている=1955年11月15日、東京都千代田区神田の中央大学講堂拡大自由民主党の新党結成大会。壇上には鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉、大野伴睦4代行委員、岸信介幹事長らが並び、背景には立党宣言が張られている=1955年11月15日、東京都千代田区神田の中央大学講堂

 このうち「55年体制」とは、政治学者・升味準之輔が論文「1955年の政治体制」を発表して以来、人口に膾炙(かいしゃ)したフレーズである。自由党と民主党の「保守合同」による自由民主党の成立、総評を背後においた社会党の右派と左派の合同、あるいは共産党における武装闘争方針の放棄と議会内政党化の決断。これらのことが立て続けに起こったのが1955年という年であった。

 自民党が常に議会の過半数を掌握しつつも、憲法改正に必要な3分の2以上の議席は獲得せず、他方、野党第一党たる社会党は政権交代に必要な議席は獲得できない。升味が「一と二分の一政党制」と名付けたこの体制は、政権交代(より正確には左派勢力による政権奪還)と憲法改正が二つながらに禁じられた体制であったということもできる。

確かに機能した自民党システム

 憲法改正という党是を封印した「現実の党」たる自民党と、政権交代への意欲を実質的に喪失し非現実的な「理想の党」たる社会党との間での、永遠に続く(と当時は見えた)「プロレス」にも似ていた。だがそれは、冷戦体制という厳然たる国際政治レジームの中で、西側陣営の一員として経済成長の果実を社会全体で分配し、そのことによって東側陣営より高いパフォーマンスを示すことにかけては優れていた。

 党公認よりも政治家個人の後援会が死命を制する中選挙区制、そうした選挙制度が半ば必然的にもたらす党内「派閥」の実質化・活性化、野党や縦割り意識の強固な各省庁、各種業界(圧力)団体といったボトム・アップ型かつ分権的な秩序が制度化された。いわば広範な自治権を認められた各種団体間の相反する利害の「総合調整」は、与野党間の国対政治をはじめとして、多くの場合、「水面下」でなされた。その極端な例は「夜の国会議事堂」とも呼ばれた赤坂の「料亭政治」であろう。

 倫理的な高潔さを多少犠牲にした感は否めないが、このシステム(「自民党システム」とも呼ばれる)は確かに機能した。自民党の反対勢力をして、本気で政権交代を目指す努力を失わせるくらいには。なぜなら彼らもまたシステムの受益者となっていたからであり、その意味でこのシステムは高度に包摂的なものと言えた。

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筆者

河野有理

河野有理(こうの・ゆうり) 首都大学東京法学部教授

1979年東京生まれ。東京大学法学部卒業、同大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。首都大学東京都市教養学部准教授を経て2016年より現職。主著に『明六雑誌の政治思想』(東京大学出版会)、『田口卯吉の夢』(慶應義塾大学出版会)、『偽史の政治学』(白水社)などがある。