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「平成デモクラシー」の起源と福沢諭吉の天皇論

政体論の復権の試み:天皇制と「平成デモクラシー」を考える(後編)

河野有理 首都大学東京法学部教授

バジョットの挑戦的な「学説」

福沢諭吉翁=1980年代から1990年代の撮影か。拡大福沢諭吉翁=1980年代から1990年代の撮影か
 福沢の「融合」モデルの理論的な背景は、W・バジョットの『英国憲政論』(1867年)である。バジョットこそ、まさに行政と立法の「融合(fusion)」が大英帝国の「国制」(constitution)の本質的特徴であると喝破して見せた人物であった。

 英国は議院内閣制の国であり、議院内閣制とは行政と立法が融合して「執政中枢」を形成するところにその特徴があるという理解は、今でこそ政治学の初歩的な常識であるが、バジョットにとっては挑戦的な「学説」であった。裏を返せば、バジョット以前、それは常識ではなかった。

 英国の国制をどのように理解するのかについては、様々なヴァリエーションがあり得た。その中でも伝統的なバージョンは、モンテスキューをはじめとする「三権分立こそが英国国制の本質だ」という理解である(『法の精神』)。

 西洋政治思想史における混合政体論の流れをくむ、この「三権分立」モデルによる英国国制理解。その影響がいかに巨大なものであったのかは、アメリカ合衆国の建国史を見れば自明である。アメリカの建国の父祖たち(founding fathers)は、英国の国制を模範としたモンテスキューを教科書として学び、厳格な三権分立に基づく大統領制度を作り上げた(『フェデラリスト・ペーパーズ』)。

 だからこそバジョットもまた、『英国憲政論』の冒頭において、三権の「分立」(separation)と相互の「抑制と均衡」(check and balance)を旨とする伝統的な理論を、力を込めて批判する必要があったのである。

「三権分立」が支配的だった明治期の議会理解 

 本稿の視点から興味深いのは、幕末から明治期にかけての議会制理解が、基本的にはバジョットの線ではなく、モンテスキューの線に沿っていたということである。幕末にオランダで学んだ西周や津田真道といった知識人は、抽象的な社会契約理論やその帰結としてのフランス革命にはアンビバレントな態度を示しつつ、歴史的に形成された立憲政体による国王権力の抑制を重視するトルベッケやフィッセリングに学び、「三権之別」(西周『議題草案』)を議会制度の真髄として理解していた。

 西や津田は、当時にあっては、西洋の議会制度に関するほぼ競争者相手のいない、独占的な解説者であった。多元的で極度に分立的なシステムとしての「55年体制」の思想的淵源は、こと近代日本に関する限り、西周や津田真道にあると言うことも不可能ではないであろう。

 福沢諭吉は、西周や津田真道と明治初年の明六社と呼ばれる知的サークルの仲間であった。では、福沢が当時支配的だった「権力分立」的な議会制理解を当然に踏まえたうえで、自身は「平成デモクラシー」と見まがうばかりの権力「融合」的な議会制構想を提出するにいたったその背景とは何であったのか。

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筆者

河野有理

河野有理(こうの・ゆうり) 首都大学東京法学部教授

1979年東京生まれ。東京大学法学部卒業、同大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。首都大学東京都市教養学部准教授を経て2016年より現職。主著に『明六雑誌の政治思想』(東京大学出版会)、『田口卯吉の夢』(慶應義塾大学出版会)、『偽史の政治学』(白水社)などがある。