平成政治の興亡 私が見た権力者たち(9)
2019年02月02日
1998(平成10)年6月までの通常国会で、念願の省庁再編法の成立を成し遂げた橋本龍太郎首相は、夏の参院選を乗り切り、次の政策課題に取り組む準備を進めていた。メディアの世論調査も、橋本首相率いる自民党の「優勢」を伝えていた。
実はこの参院選をめぐって、私は不思議な体験をしている。
前年の97年11月、当時外相だった小渕恵三氏が国際会議に出席するためにカナダのバンクーバーを訪れた。当時、ワシントン総局にいた私も会議の取材に加わった。
旧知の小渕氏から「メシでも食おう」と誘われて、中華料理を食べていた時のことだ。私が「参院選は安泰で、橋本首相の続投ですか」とたずねたら、小渕氏が声を潜めて、「いや、そうでもないんだ」と言う。「経済情勢が悪く、橋本君に逆風が吹くかもしれない。俺も準備をしておかないと」と、小渕氏にはめずらしく、首相の座に意欲を示した。
さらにもう一つ。特派員勤務を終えた私は98年4月に帰国、政治部のデスクとして国内政治の取材を再開した。5月になって、旧知の大蔵省幹部が政局の行方について話したいという。会ってみると、「大蔵省の分析では、経済情勢が悪く、参院選で自民党の苦戦が避けられない。橋本首相の続投は難しい。その場合、後継は小渕外相だと思う」という。
後に明らかになるのだが、小渕氏と大蔵省幹部の動きの背後にいたのは、竹下登元首相だった。竹下氏は独自の情報網を駆使して、経済情勢が悪化し、参院選で自民党は苦戦すると読んでいた。その見通しを、愛弟子の小渕氏と、長年、蔵相を務めて影響力のある大蔵省に伝えていたのだ。小渕氏には「首相への準備」さえ示唆していた。
確かに、経済情勢は深刻だった。97年4月に消費税率が3%から5%に引き上げられたことで、消費は激減。9月に発表された4-6月の国内総生産(GDP)はマイナス2.8%、年率換算ではマイナス11.2%という落ち込みで、その後も回復力は弱かった。
参院選に向けて、政府・自民党内では景気対策のための所得税減税が叫ばれた。橋本首相も当初は「恒久的な減税が必要」と述べていたが、選挙戦終盤で、発言が大きくぶれた。
7月5日、テレビ朝日の『サンデープロジェクト』に出演した橋本首相は、キャスターの田原総一朗氏に減税問題で詰め寄られ、「恒久減税のところもあれば、負担をお願いするところもある」などと曖昧(あいまい)な答えに終始したのである。表情にも余裕がなく、メディアは「目立つ歯切れ悪さ」(7月6日付毎日新聞)と伝えた。
12日の投票日。自民党は改選前の61議席を大きく下回る44議席にとどまった。非改選を合わせた勢力は102議席で、参院の過半数(126議席)は、さらに遠のいた。前年に解党した新進党の勢力が合流したばかりの新・民主党は27議席と健闘。共産党も15議席を獲得し、公明党の9議席を上回った。
橋本首相の進退をめぐる自民党内の動きは素早かった。投票日の夕方、村岡兼造官房長官が東京・代沢の竹下登元首相の自宅を訪問。マスコミの出口調査などから自民党の惨敗は避けられないことを報告した。竹下氏にはすでに、橋本氏から「退陣」の意向が伝えられていた。竹下氏は「橋本退陣、後継は小渕」で、得意の根回しを進めた。
加藤紘一幹事長、野中広務幹事長代理ら橋本首相を支えてきた「自民、社民、さきがけ連携派」にとっても、小渕首相は好都合だった。小渕派幹部の梶山静六氏たちは自由党の小沢一郎氏らとの「保・保連合」をめざしていた。参院選の敗北を受け、梶山氏らが橋本・加藤執行部の責任を追及、主導権を奪おうとしていた中で、小渕氏なら「自社さ派」の主導権は維持できるし、梶山氏も押さえ込めるからだ。
梶山氏は小渕派を離脱。河野洋平、江藤隆美、粕谷茂各氏らベテラン議員も梶山氏を支援した。衆院当選1回の菅義偉氏(現官房長官)も、小渕派を離れて梶山氏と行動を共にした。
総裁選には、三塚派の小泉純一郎氏も出馬を表明。結局、梶山、小渕、小泉の3氏の争いになった。当時、自民党衆院議員だった田中真紀子氏は3氏を「軍人、凡人、変人」と評し、話題となった。
テレビ討論では、「口下手」と本人も認める小渕氏は劣勢だった。それでも、最大派閥の小渕派が全面的に支え、党内の実力者になっていた加藤紘一幹事長、山崎拓政調会長らが支援した小渕氏の優勢は崩れなかった。
7月24日、衆参の国会議員367人に都道府県連の代表47人を加えた414人による投票が行われる。結果は、小渕氏が225票、梶山氏が102票、小泉氏が84票で、小渕氏の圧勝となった。
小渕氏は1963年に衆院初当選。総理府総務長官などを経て、竹下内閣で官房長官。党幹事長、副総裁、外相などを歴任した。中選挙区制時代の選挙区、群馬3区では、福田赳夫、中曽根康弘両元首相に挟まれて苦労を重ねた。小渕氏本人も「米ソ両大国に挟まれた日本と同じ」「ビルの谷間のラーメン屋」と自嘲気味に語っていた。
「永田町」では竹下氏を師と仰ぎ、他派閥の議員とも交流を重ねた。また、公明党を支える創価学会の秋谷栄之助会長とは、早稲田大学の同窓という縁もあり、太いパイプを持っていた。それが政権維持に役立ってくる。
7月30日、衆院本会議で首相指名を受けた小渕氏は組閣に着手。官房長官に小渕派の野中広務元自治相を据えて、体制を固めた。経済の再生を最優先課題に掲げ、首相経験者である宮沢喜一氏を蔵相に、評論家の堺屋太一氏を経済企画庁長官に起用。また、「総裁枠」として自民党の若手、野田聖子氏を郵政相に、元東大総長の有馬朗人氏を文相に抜擢した。異例かつ大胆な人事だった。
自民党幹事長には、早稲田大学雄弁会OBの仲間でもある森喜朗氏を起用した。これにより、森氏は首相候補の一角を占めることになる。
だが、地味な性格もあって、小渕首相の知名度はいま一つ。海外メディアからは「冷めたピザ」と評された。本人は「ピザも温めて食べるとうまい」と切り返したり、外相時代にカウンターパートだった米国のオルブライト国務長官からは「私は冷めたピザが好き」とのメッセージが寄せられたりしたが、政権発足当初の世論調査では支持率が3割程度と低水準にとどまった。
小渕政権の緊急課題は、金融危機の回避だった。1997年暮れの山一証券の自主廃業に続いて、こんどは日本長期信用銀行(長銀)の経営危機が迫っていた。小渕首相は首相公邸で住友信託銀行の高橋温社長と直談判。長銀救済のため合併するよう求めたが、受け入れられなかった。
彼らによって修正協議を進められ、金融機関の清算や一時国有化を柱とする民主党案を自民党が「丸のみ」することで決着。日本発の世界金融危機は回避された。修正協議に当たった議員たちは、大蔵省に頼らない独自の手法で法案づくりを進め、「政策新人類」と呼ばれた。
小渕首相は、かねてから思いつくとすぐに電話をかける習癖があった。その癖は首相就任後も変わらず、「ブッチホン」と言われた。野中官房長官からは「首相なのだから、やめた方がいい」と進言されたが、当の本人は「ブッチホンは民意を計る温度計だ。生の声を聞くことで、世の中の様子が分かる」と譲らなかった。
私も何度も経験した。新聞社のデスクにかかってきた電話を受けたアルバイトの学生は、首相からの電話にびっくりしていた。そんなブッチホンのひとつ、金融再生関連法案で与野党が合意した直後の電話で、小渕氏はこう話した。
「参院で与党が少数という事態を変えないとどうにもならない。俺はこだわりがないから、何でもできる」
その時、小渕氏の念頭にあったのは、野党の公明党(新進党分裂で「公明」と「新党平和」に割れていたが、98年11月に公明党に再統合)との連立だった。自民と公明が連立すれば、参議院で過半数を確保でき、衆参の「ねじれ」が解消される。
小渕氏が「こだわりがない」と言うのには背景があった。中選挙区時代のライバル、福田、中曽根両元首相は、ともに高級官僚出身のエリート。選挙区では伝統的な自民党系の組織に支えられ、中央政界でも公明党・創価学会とはあまり縁がなかった。これに対し、「ビルの谷間のラーメン屋」を自称する小渕氏は、公明党・創価学会とも気さくに接触していた。ちなみに公明党との太いパイプは、自民党内では新興勢力だった田中・竹下派の他のメンバーにも共通している点である。
つまり、自民党がまず小沢一郎氏率いる自由党と連立し、その後に公明党も加わる形なら可能だというのだ。
野中氏は直ちに動いた。竹下派の分裂抗争の時は「悪魔」と呼んで非難した小沢氏との和解を、野中氏は「ひれ伏してでもお願いしたい」と懇願。結局、1998年11月19日、小渕首相と小沢自由党党首は連立に合意した。「自自連立」という形で、座布団が用意されたのである。
ここで、公明党について触れておこう。
1964年に平和と福祉を旗印に掲げ、創価学会を母体に設立された。野党の社会党、民社党とともに自民党に対抗する社公民路線を歩んだが、1980年代末からは自民党との連携を強め、自公民路線と呼ばれた。衆議院に小選挙区制を導入する政治改革の中で、政党が二大勢力に収斂していくことが予想されるなか、公明党は小沢氏主導の非自民勢力に加わり、細川護熙・羽田孜両政権を支えた。
さらに、自民党に対抗する新進党でも、公明党勢力は中核的な役割を果たした。だが、自民党から「政教分離」問題をめぐって執拗な攻撃を受け、創価学会は危機感を募らせていた。新進党の解党後は、自民党との連携の機会をうかがっており、公明党・創価学会と縁の深い小渕政権は、公明党にとって自民党との連立に加わる好機だった。
自自連立の発足後、公明党は国会運営で自民党との協力を深めていく。99年の通常国会では、①日本周辺での有事に自衛隊が米軍の後方支援を可能にする周辺事態法案②限定付きで捜査機関による通信傍受ができるようにする法案③日の丸・君が代を国旗・国歌と定める法案、などが、自自公の賛成で次々と可決・成立した。
このころ、小渕首相と話した時、新聞の切り抜きを見せられたのを思い出す。「世間はよく見ている。油断大敵だ」と、小渕氏は笑っていた。切り抜きの川柳欄にはこうあった。
――やるじゃない やりすぎじゃない 小渕さん
公明党は99年7月の臨時党大会で自民党との連立を決定した。10月には小渕首相、小沢自由党党首、神崎武法公明党代表が連立政権に合意。自自公政権が正式にスタートした。
自民党と公明党との連立はその後もずっと継続し、国会運営だけでなく、国政選挙や地方選挙でも自公協力が威力を発揮してきた。いまや自民党政権は公明党との協力抜きでは成り立たない。
その原点は、小渕首相による公明党・創価学会の取り込みだったのである。
次回は、小渕首相が倒れ、後継として発足した森政権の混迷を描きます。2月16日公開予定。
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