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冷めたピザ? 凡人・小渕首相のしたたかな実像

平成政治の興亡 私が見た権力者たち(9)

星浩 政治ジャーナリスト

軍人、凡人、変人の争いになった総裁選

自民党総裁選に立候補握手する梶山静六、小泉純一郎、小渕恵三の三氏(右から)=1998年7月21日、東京・永田町の党本部拡大自民党総裁選に立候補握手する梶山静六、小泉純一郎、小渕恵三の三氏(右から)=1998年7月21日、東京・永田町の党本部
 7月13日、橋本首相は退陣を表明。翌14日の派閥の幹部会では「小渕氏擁立」に異を唱えなかった梶山氏はしかし、15日になって総裁選出馬を表明した。竹下氏譲りの「調整型」の小渕氏では大胆な経済改革はできないという思いが、梶山氏を駆り立てた。

 梶山氏は小渕派を離脱。河野洋平、江藤隆美、粕谷茂各氏らベテラン議員も梶山氏を支援した。衆院当選1回の菅義偉氏(現官房長官)も、小渕派を離れて梶山氏と行動を共にした。

 総裁選には、三塚派の小泉純一郎氏も出馬を表明。結局、梶山、小渕、小泉の3氏の争いになった。当時、自民党衆院議員だった田中真紀子氏は3氏を「軍人、凡人、変人」と評し、話題となった。

「口下手」小渕氏が圧勝

 テレビ討論では、「口下手」と本人も認める小渕氏は劣勢だった。それでも、最大派閥の小渕派が全面的に支え、党内の実力者になっていた加藤紘一幹事長、山崎拓政調会長らが支援した小渕氏の優勢は崩れなかった。

 7月24日、衆参の国会議員367人に都道府県連の代表47人を加えた414人による投票が行われる。結果は、小渕氏が225票、梶山氏が102票、小泉氏が84票で、小渕氏の圧勝となった。

 小渕氏は1963年に衆院初当選。総理府総務長官などを経て、竹下内閣で官房長官。党幹事長、副総裁、外相などを歴任した。中選挙区制時代の選挙区、群馬3区では、福田赳夫、中曽根康弘両元首相に挟まれて苦労を重ねた。小渕氏本人も「米ソ両大国に挟まれた日本と同じ」「ビルの谷間のラーメン屋」と自嘲気味に語っていた。

 「永田町」では竹下氏を師と仰ぎ、他派閥の議員とも交流を重ねた。また、公明党を支える創価学会の秋谷栄之助会長とは、早稲田大学の同窓という縁もあり、太いパイプを持っていた。それが政権維持に役立ってくる。

海外メディアから「冷めたピザ」との評も

 7月30日、衆院本会議で首相指名を受けた小渕氏は組閣に着手。官房長官に小渕派の野中広務元自治相を据えて、体制を固めた。経済の再生を最優先課題に掲げ、首相経験者である宮沢喜一氏を蔵相に、評論家の堺屋太一氏を経済企画庁長官に起用。また、「総裁枠」として自民党の若手、野田聖子氏を郵政相に、元東大総長の有馬朗人氏を文相に抜擢した。異例かつ大胆な人事だった。

 自民党幹事長には、早稲田大学雄弁会OBの仲間でもある森喜朗氏を起用した。これにより、森氏は首相候補の一角を占めることになる。

 だが、地味な性格もあって、小渕首相の知名度はいま一つ。海外メディアからは「冷めたピザ」と評された。本人は「ピザも温めて食べるとうまい」と切り返したり、外相時代にカウンターパートだった米国のオルブライト国務長官からは「私は冷めたピザが好き」とのメッセージが寄せられたりしたが、政権発足当初の世論調査では支持率が3割程度と低水準にとどまった。

小渕恵三内閣が発足。記念撮影をする閣僚たち。前列左から3人目が小渕首相、その右が宮沢喜一蔵相、左が野中広務官房長官=1998年7月30日拡大小渕恵三内閣が発足。記念撮影をする閣僚たち。前列左から3人目が小渕首相、その右が宮沢喜一蔵相、左が野中広務官房長官=1998年7月30日

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筆者

星浩

星浩(ほし・ひろし) 政治ジャーナリスト

1955年福島県生まれ。79年、東京大学卒、朝日新聞入社。85年から政治部。首相官邸、外務省、自民党などを担当。ワシントン特派員、政治部デスク、オピニオン編集長などを経て特別編集委員。 2004-06年、東京大学大学院特任教授。16年に朝日新聞を退社、TBS系「NEWS23」キャスターを務める。主な著書に『自民党と戦後』『テレビ政治』『官房長官 側近の政治学』など。

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