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明石市長の暴言問題はどこまで許されるか?

時代とともに変わる理想的な首長像。「星一徹」的リーダーから合理的リーダーへ

米山隆一 衆議院議員・弁護士・医学博士

辞意表明後の記者会見で謝罪する泉房穂・明石市長=2019年2月1日、兵庫県明石市辞意表明後の記者会見で謝罪する泉房穂・明石市長=2019年2月1日、兵庫県明石市

ネット上で賛否が分かれた市長辞職

 先般、泉房穂・元明石市長が部下に対する暴言を理由として辞職を表明されました。

 この件については当初、
「すまんですむかアホ! すまんですまん! そんなもん。立ち退きさせてこい、お前らで。今日火付けてこい! 今日火付けて捕まってこいお前、ふざけんな! 行って壊してこい建物。損害賠償は個人で負え! 当たり前じゃ!」
という泉市長の暴言部分だけが報道され、市長に対する非難が殺到しました。

 ところがその後、泉元市長の暴言の理由が、市民の安全を実現するための、「死亡事故の起こった道路の拡幅工事のための土地の買収を7年間放置した」と思われる部下(ただし、これについても泉元市長と部下では言い分の食い違いがあります)に対する叱咤(しった)であったと思われる部分が報道されたこともあって、ネット上では賛否が分かれました。

 ちなみにその部分とは、以下の通りです。

 「あっこで人が死んだんでしょう? だからやるんでしょう? 巻き込まれて死んだ角やないか。あの角が立ち退かんかったら工事できひん。あそこが中心や! 私が行って頭下げて土下座でもしますわそんなもん! 市民の安全のためやろ! 市民の安全のためにしんどい仕事をやって安全な道路を作ろうとしているんでしょう? それはある意味誇りでしょうが! しんどい仕事やから尊いんですよ。相手がややこしいから仕事が美しいんでしょう! 後回しにすんなよ! 腹立つのはそこやから! 何の仕事しとんねん。あっこの工事ができてこそ安全対策になるんでしょう。そのために道路としてもやっているんでしょう」

泉氏の市長辞職はやむを得ない

 より良い市政の実現に対する心残りを吐露した泉元市長の会見は、我が身を振り返って、見ているのがつらくなるものでしたが、しかし私は、それが唯一の選択肢だったかどうかは考慮の余地があるにせよ、辞職それ自体は、止むを得ない事であったと思います。

 この件で泉元市長が同情を集め、罵倒が正当であると考えられた理由は恐らく、
①動機が「より良い市政を実現する。」という良いものであり、罵倒はその実現に必要だと考えられる
②職務怠慢な職員を働かせるには罵倒が有効だと考えられる
③市長が職務怠慢な職員を罵倒することは適切だと考えられる
の三つだと思われます。

 私は、氏の動機・熱意は理解できるとしても、暴言それ自体は、思いを実現するうえで必要でも、有効でも、適切でもなかったと考えます。

 以下、その理由を述べます。

命令と人事を使って動かすべし

パワハラ( sayu/shutterstock)パワハラ( sayu/shutterstock)
 まずもって、報道されている氏の市政への真摯(しんし)な取り組みは頭が下がるものですし、死亡事故が起きた現場を少しでも早く改善し、安全な街を作りたいという熱意も、買収を実行しなかったと思われる職員への怒りの感情も理解できます。

 しかしそれは、あくまで氏の「動機」です。その動機、より良い市政、安全な街づくりを実現したいという熱い思いを実現するには、氏は職員に自らの熱意を共有してもらい、自らの熱意を実現する行動をとってもらわなければなりません。

 そのために、「暴言」は、必要だったでしょうか? 私にはそうは思えません。

 市長は、市の行政の唯一の最終的命令権者にして人事権者です。「より良い市政を実現するために直ちに買収を実行する」という自分の動機を実現するためには、ただ単に「今すぐ買収を実行してください」といえばいいだけです。99%の職員は、即座に実行してくれるでしょうし、出来ない理由があるならその理由を説明してくれるでしょう。

 なかには、市長に直に言われても実行も説明もしない強者(つわもの)もいなくはないでしょうが、そう言う人がいたら、人事権を行使して「あなたはこの職にふさわしくありません。担当を変わってください」といって適任者に担当を代えれば話は終わります。暴言は全く必要ではなかったと思います。

暴言はモチベーションを上げない

 次に、市長の熱意を実現するために罵倒は必要でもなかったとしても、それでも市長の言葉によって職員のモチベーションが上がり、より一層意欲をもって職務に取り組むようになったなら、それはそれで有効であったということにはなりえますが、この罵倒はモチベーションの向上に有効だったでしょうか?

 残念ながら、当初報道されていた、もろに暴言の部分のみではなく、「人が死んだからでしょう?」という理由の部分や、「しんどい仕事なんだ」という語りかけの部分を含めて全部聞いたとしても、私にはこの暴言が、職員のモチベーションを上げるようなものであったようには聞こえません。

 「火をつけろ」「自費で賠償しろ」といわれた職員は、恐らくその理不尽に困惑し、やる気の何割かをそがれたでしょうし、直ちに買収するとは言っても相手のあることで、どの程度まで相手の事情を斟酌(しんしゃく)していいのか、困惑もしたでしょう。また、それを実行できない正当な理由があった場合に説明に困ったでしょう。

 要するにこの暴言は、職員のやる気を向上させるという意味でも、より良い市政を実現するという意味でも、まったく有効ではなかったと思われます。

買収が行われなかったのは市長の責任

チームを引っ張り目標を達成させるのはリーダーだ(Ilyafs/shutterstock)チームを引っ張り目標を達成させるのはリーダーだ(Ilyafs/shutterstock)
 上記の通り、必要でも有効でもなかったとしても、罵倒それ自体が適切なら、批判されるいわれはないわけですが、果たしてこの暴言は適切だったでしょうか?

 まずもって、言葉が過ぎて不適切だということは論を待ちませんが、仮にそれがなければ、職務怠慢の職員を叱り飛ばすことは、溜飲(りゅういん)が下がり適切だというのは、第三者から見れば、ありうる感覚かもしれません。

 しかし先述した通り、市長は市の行政の最終的命令権者にして人事権者、つまり市の行政の最終責任者です。もし市長の言う通り、7年間買収が行われずに放置されてきたのなら、その責任は最終的にはその間、市長を務めていた氏自身にあります。第三者ならいざ知らず、自らが最終的な責任者である市長が、部下を叱り飛ばして溜飲を下げるのは、まったく適切ではありません。

 繰り返しますが、市長の暴言は、恐らく、より良い市政を実現したいという熱い動機から発せられたものでしょう。しかし、熱い気持ちを持っているということなら、それを持っている人は決して少なくありません。そして熱い気持ちを実現するのに、暴言を使っていいなら、それを実現できる人も何人かはいるでしょう。

 そうではなく、普通の、しかし適切な心に響く言葉を使って、自らの理想を職員と共有し、それを実現する方法を共に考え、それを実現できる人を配置するのが、リーダーとしての首長の役割であり、リーダーとしての首長に求められる「指導力」だと私は思います。

「星一徹」的リーダーが良しとされた日本だが

 少々話がそれるのですが、これと類似した問題として、近年はブラック企業におけるパワハラが大きな問題となってきましたし、昨年は

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