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英国よりエスタブリッシュメントの餌食になる日本

新自由主義の波に呑み込まれた英国。その背中を日本はひたすら追いかけている

白波瀬 達也 桃山学院大学社会学部准教授

気鋭のジャーナリストによる新自由主義批判

 「エスタブリッシュメント」。支配体制・特権階級などの訳語が当てられるこの用語は日本でもある程度知られているが、日常レベルで使われる機会は少ない。

 一方、イギリスでは耳慣れた用語として定着している。著者のオーウェン・ジョーンズは、現代イギリスの不平等を象徴する存在として「エスタブリッシュメント」に注目し、いかに彼らが我が物顔で社会を牛耳っているかを明らかにしている。

 本書の解説を始める前に著者の紹介をする必要があるだろう。

オーウェン・ジョーンズ
 オーウェン・ジョーンズは1984年生まれの気鋭のジャーナリストだ。労働者階級が多く暮らすマンチェスター郊外のストックポート出身で、猛烈な反エスタブリッシュメントの家庭で育った。一方、オックスフォード大学を卒業したエリートとしての顔もある。

 このような複雑な出自をもつジョーンズの名を有名にしたのは2011年刊行のチャヴ 弱者を敵視する社会(邦訳の出版は2017年)だ。

 この本は21世紀になってイギリスで広まった白人労働者階級に対する嫌悪の実態を膨大な資料分析や聞き取り調査から活写したものだ。昨年、筆者がイギリスに滞在時に訪れた複数の書店で『チャヴ』が未だに大きく取り上げられているのを目の当たりにし、存在感の大きさを改めて実感した。

 一躍時の人となったジョーンズが『チャヴ』の次に手がけたのが2014年刊行のエスタブリッシュメント 彼らはこうして富と権力を独占する(邦訳の出版は2018年)だ。『チャヴ』では新自由主義が貫徹するなかで安定的な地位を失った白人労働者階級が蔑まれる構造を見事に描出したが、本書は新自由主義のもとで圧倒的な富と権力を得る者にフォーカスを絞り込んでいる。

エスタブリッシュメントとは誰か

 ジョーンズはエスタブリッシュメントには多様な見解があるとしながらも非難の意味合いが含まれていると指摘している。そしてエスタブリッシュメントを「成人のほぼ全員が選挙権を持つ民主制において、自分たちの地位を守らなければならない有力者の集団」(7頁)と定義している。

 では、エスタブリッシュメントはどのような人々で構成されるのか。

 ジョーンズは法律を制定する政治家、議論の下地を作るメディアの大物、経済を動かす企業や金融業者、強者に有利な法律を執行する警察機関を例に挙げている。彼らは社会の頂点に立つ人々が権力と増えつづける富を所有するのには、正当な理由があると認識する点で共通している。

 「私にはその価値があるから」。この印象的なフレーズに聞き覚えはないだろうか。そう、化粧品ブランドとして知られるロレアルの宣伝文句だ(英語ではBecause I’m worth it)。これがエスタブリッシュメントのメンタリティを象徴するキーワードとして本書で何度も使われている。

 つまり「私にはその価値があるから」、臆面もなく政治家が経費をごまかしたり、企業が租税回避したりするのである。

権力者へ向かうべき怒りが弱者に転嫁されるメカニズム

 ジョーンズはエスタブリッシュメントを徹底的に批判するが、社会的地位の高い人々すべてをターゲットにするほど横暴ではない。彼が敵視しているのは新自由主義を信奉するエスタブリッシュメントだ。

 ジョーンズは現代のエスタブリッシュメントが国家を忌み嫌いながら、国家に依存して繁栄しているにもかかわらず、彼らに対する社会の監視は充分ではないと嘆く。

 権力者の不正・不道徳に目を光らせるのがメディアの仕事だが、イギリスのメディア自体がエスタブリッシュメントの主要な一部となっている。その結果、権力者へ向かうべき怒りが、弱い立場の人々に向かいやすくなっているのだ。

 ジョーンズの以下の指摘は傾聴に値する。

イギリスのエスタブリッシュメントのなかで、メディアは重要な役割を果たす。攻撃の矛先を社会の最下層に向ければ、頂点にいる富裕層や権力エリートへの監視の目をそらせるからだ。(110頁)

 では、なぜこのような「共犯関係」が生み出されてしまうのか。

 ジョーンズはメディア、とりわけ新聞の論調がエスタブリッシュメントの意向と符合しやすい理由として、ジャーナリストの出自の特殊性を指摘する。イギリスの新聞社に勤めるジャーナリストになるためには多くの場合、無報酬のインターン制度を経る必要があり、修士号も有していなければならない。要は裕福な環境の者が選ばれやすい構造になっているのだ。

 こうした傾向は公共放送のBBC(英国放送協会)も例外ではない。ジョーンズは「BBCはあくまでも親ビジネス、右派寄りの放送局であり、エスタブリッシュメント思想のプラットフォームとして機能している」(152頁)と舌鋒鋭く批判。BBCがセクシュアリティやジェンダーの問題ではリベラルな立場をとる一方、新自由主義経済を深く支持していると看破している。

 この指摘を日本の公共放送と置き換えてみるとどうだろうか。似たような傾向があると思うのは筆者だけではないだろう。

たかり屋はどっちだ

 エスタブリッシュメントは国家に対しては、「個人を国家の束縛から解放しろ」と主張する一方、もっとも貧しい人々に対しては「たかり屋」「怠け者」とラベリングする。ジョーンズはこれこそが彼らに特徴的なイデオロギーだと指摘する。

 では、エスタブリッシュメントは国家に依存しない存在なのか。

 ジョーンズは、むしろエスタブリッシュメントが国の膨大な富と資源を受け取っていると繰り返し主張している。その最たるものが金融業界に見られる。この業界はリーマンショックの際に国全体を未曾有の経済危機に陥れたにもかかわらず、一兆ポンド(150兆円)を超える公金で救済され、その後は危機前と同じように仕事を続けているとジョーンズは苛立ちを隠さない。

 また、以下の文章はジョーンズの怒りが凝縮された本書のハイライトのひとつともいえる箇所だ。

租税回避は、イギリスの富と権力のきわめて不平等な分配の一症状だ。法は貧困者の不正行為を厳しく取り締まる一方で、富裕者のもっとずっと破壊的な行動は認め、手助けさえする。租税回避で失われる何百億ポンドを、不正受給による12億ポンド(約1800億円)の喪失と比べてみてほしい。不正受給のほうはニュースの定番のネタになって、怒ったタブロイド紙の見出しを飾っている。(258-259頁)

 この文章を読んで筆者は即座にアメリカの社会学者のエドウィン・サザランドが1939年に提起した「ホワイトカラー犯罪」を想起した。

 これは社会の上層に位置する人々が、その地位・権限を利用した犯罪の総称で、脱税、インサイダー取引、贈収賄、横領などが含まれる。こうした犯罪は実際に莫大な被害規模をもつものの、犯罪に関わる当人が罪悪感に乏しいこと、当局が寛大な対応を取りがちであることなどが指摘されている。

 租税回避の場合は合法的に税逃れをしているため税法違反にはあたらない。しかし別の見方をすれば、脱税を可能にするために自らの地位・権限を利用して合法的な手段を編み出しているともいえる。すなわち触法行為ではないが、公正さを著しく欠いた行為とみなしうるものだ。

 興味深いのは80年も前のサザランドの指摘が今日にも当てはまることだ。ただエスタブリッシュメントがその手段を巧妙化させており、ますます「不正」が見抜きづらくなっている点には留意が必要だ。

 ジョーンズは大企業や富裕エリート層が会計士や弁護士を雇って納税を意図的に避けていることや、国家にロビイストを送りこみ、自分たちに都合の良い法律を作らせている点を指摘し、その悪質性に目を向ける必要を訴える。

 一方、租税回避がイギリス社会全体の変化の一断面でしかないとも指摘する。エスタブリッシュメントが力を得るに伴い、大企業に有利な状況が作られているのだ。

 公的部門の民営化、法人税の引き下げ、労働組合の弱体化などの現象は、富の不平等な配分を加速させ、富裕層に強い権利意識と勝利感を与えた。それが前述した「私にはその価値があるから」というフレーズに象徴されている。

下からの突き上げ不足

 かくしてイギリスはエスタブリッシュメントに富が集まる構造となっているわけだが、この状況を生み出す一因となっているのが下からの突き上げ不足。端的なのは労働組合の弱体化だ。

 本書によれば、今日のイギリスで労働組合に加入しているのはたった14%だ。雇用の流動化に伴い、労働者同士が団結することが困難になった。その結果、エスタブリッシュメントへの権力集中が一層進んでいる。ジョーンズは惨状を次のように訴える。

彼らのイデオロギーには独自の論理があり、富裕層への減税、民営化、労働者の権利剥奪が自己目的と化している。シンクタンクや企業メディアは、そうした目的の正当性を訴え、ビジネスエリートの利益がさも国民全体の利益になるかのように説明しつづける。大企業は政党やシンクタンクに資金を提供するだけでなく、国家機構の一部と融合している。劇的に力を奪われた労働組合のように、組織的な対抗勢力がなくなったことから、トップに富と権力が集中しつづける流れはほとんど止めようがない。(303頁)

 この文章から筆者がすぐに思い起こしたのが「トリクルダウン」だ。高所得層から低所得層に富が滴り落ちる効果として知られるこの言葉は、安倍首相が成長戦略のキーワードとして頻繁に使っているが、その効果は怪しいとされている。

安倍首相と麻生財務相

 確かにここ数年、日本企業の収益が堅調で、それがアベノミクスの成果としてしばしば取り上げられている。しかし、企業が増収傾向にあっても人件費は低く抑えられたままなので被雇用者は生活水準が向上したと実感しにくい。

 また、日本政府は景気向上に伴う雇用の増加をアピールするが、非正規雇用率がどんどん上昇しており、現在では40%近くなっている。日本の低い失業率もきわめて高い非正規雇用率に支えられており、所得格差が激しい。なかでもロストジェネレーション世代(1970年代前半から1980年代前半にかけて生まれ、就職氷河期を経験した世代)の就労状況がきわめて深刻であることは、さまざまな論者が指摘するところだ。

 富裕層への減税、民営化、労働者の権利剥奪によってエスタブリッシュメントが潤い、その結果トリクルダウンが起こって被雇用者の暮らしが全体的に安定するのだろうか。その答えはバブル崩壊から現在に至る日本の軌跡を見れば火を見るよりも明らかだろう。

この道しかないのか

 本書ではエスタブリッシュメントのスローガンとして「この道しかない」というフレーズが頻出する(ちなみにこの言葉は2014年の衆院選の自民党のスローガンでもある)。

 ジョーンズによれば「『この道しかない』を信じ込ませる戦略は、これまで恐ろしいほどイデオロギー的勝利を収めていて、人々のあいだに受忍と諦めのムードを作り出し、抵抗の意欲をそいでいる」(374頁)。

 では「他の道」はないのか。

 ジョーンズは反体制派がまとまりに欠ける点に警鐘を鳴らす(逆にエスタブリッシュメントは過激なくらい個人主義を説くが、共通の目標に向けてまとまったときには、感心するほど規律正しく行動する)。

 この指摘は日本にも当てはまるところが多い。数々のスキャンダルを起こしながらも長く続く自公連立政権に嫌気が差している人々は少なくないが、反対票を吸引する強いオルタナティブが存在しないところが日本の悲しき現実だ。

 イギリスの場合は労働党のジェレミー・コービンが若年層から熱烈な支持を集め、旋風を巻き起こしている。また、アメリカの場合は民主党のバーニー・サンダースがオルタナティブの受け皿として大きな力を持っている。二人とも政権交代の可能性をもった野党の重鎮として影響力を発揮している点は大きい。

英国のコービン労働党党首=2017年9月25日、英南東部ブライトン
民主党全国大会で演説するサンダース上院議員=2016年7月25日、ペンシルベニア州フィラデルフィア

 対して日本は与党に対抗できるだけの強さをもった野党がなく、大衆を惹きつける求心力をもった強力な政治家も乏しい。このように考えると「この道しかない」と唱えるエスタブリッシュメントの餌食になりやすいのは、イギリス以上に日本だったりするのではないだろうか。

 今、私たちに課されているのは、この国のエスタブリッシュメントがいかなる存在なのかを冷静に検証することだ。

 私たちがエスタブリッシュメントから何を奪われているのか、何を取り戻す必要があるのか。これを的確に知っていくことがジョーンズの警告への応答の第一歩になるだろう。