平成政治の興亡 私が見た権力者たち(10)
2019年02月16日
1999(平成11)10月の自民、自由、公明の連立政権合意に先がけて、小渕恵三首相は同年9月の自民党総裁選で再選を果たす。相手は加藤紘一、山崎拓両氏。二人はそれぞれ橋本龍太郎政権で幹事長、政調会長を長く務め、党内の実力者になっていた。
加藤氏は宮沢喜一元首相に代わって宏池会の会長に就き、山崎氏は旧渡辺派を割って独自の派閥、山崎派を率いていた。二人は小泉純一郎氏と共に「YKK」と呼ばれるグループをつくり、小渕派に対抗してきた。
党内の大勢は小渕氏続投支持だった。加藤派の古賀誠・国会対策委員長は、加藤氏に「ここは小渕氏に恭順の意を示した方がよい」と出馬見合わせを進言していた。だが、加藤氏は「この総裁選は政策討論の場だ」といった軽い気持ちで立候補した。これに対し小渕氏は、周辺に「総裁選は権力闘争の場だ。加藤君たちは俺を追い落とそうとしている」と厳しい反応を見せていた。
9月21日に行われた総裁選は、党員投票を含めて、小渕氏350票、加藤氏113票、山崎氏51票となり、小渕氏の圧勝に終わった。
総裁選後の党役員人事で、小渕氏は森喜朗幹事長を続投させ、総務会長には加藤派の池田行彦元外相を起用した。池田氏は加藤氏の派閥の一員だが、互いに反目しあっていた。加藤氏は抗議したものの、小渕氏は受け入れず、人事を押し通した。「人柄の良さ」で知られる小渕氏だが、政局運営では激しい面を持つことを示す出来事だった。
青木氏から聞いたエピソードがある。
竹下政権が発足した1987年。官房長官の座をめぐって、竹下派幹部が競い合っていた。候補は、小渕氏、政策通の橋本龍太郎氏、剛腕の小沢一郎、梶山静六の両氏、人格円満の羽田孜氏らである。迷った揚げ句、竹下氏は青木氏に助言を求めた。青木氏は「小渕さんは絶対にあなたを裏切らない」と即答。小渕官房長官が実現した。
小渕首相が、参院議員の青木氏を官房長官に据える異例の抜擢(ばってき)をしたのは、「竹下内閣の時の人事にこたえる意味もあったのではないか。律義な小渕さんらしい」。そう青木氏は受け止めている。
内政では衆参の「ねじれ」に苦しんだ小渕政権だが、外交では大きな成果をあげている。まずは首相就任間もない1998年10月の金大中・韓国大統領の日本訪問である。
金大統領は、韓国で禁止されていた日本の映画や歌謡曲などの文化を開放することも約束。日韓の文化交流に弾みをつけた。
日韓関係はその後、今にいたるまで慰安婦や徴用工の問題をめぐって揺れ動くが、小渕、金大中両氏の首脳会談は、国と国とが難しい関係にあっても、政治指導者の決断次第で大きく改善できるという「外交のダイナミズム」を印象づけた。金大統領は国会で演説し、戦後の日本の歩みを評価するとともに、韓国の民主化について「奇跡は奇跡的に訪れるものではない」と強調し、衆参両院の国会議員から大きな拍手を浴びた。
小渕首相は、韓国が金大中大統領の訪日で歴史問題に区切りをつける姿勢だったのとは対照的に、中国は歴史問題を対日外交のカードとして持ち続けようとしていると判断。中国には譲歩できないと考えていたのだ。
小渕氏は、私にこう語っていた。「中国に妥協すると、梶山君たちがうるさい」。最初の総裁選で争った梶山静六元官房長官は、自民党内の保守派と連携して小渕氏らに対抗していた。そうした「政局的観点」からも中国に譲歩はできなかったというのだ。
それでも、小渕首相は中国との対話を重ねた。その成果は、翌99年11月にマニラで開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)主催の首脳会談で実る。この場で小渕首相、朱鎔基・中国首相、金大中・韓国大統領との日中韓サミットが実現。歴史問題を抱える三国の首脳が一同に会し、北東アジアの安全保障や経済問題を話し合う枠組みが整った。この会合は、3カ国の首脳による対話の貴重な場として今も続いている。
そして、小渕首相にとって大きな決断となったのが、2000年サミット(主要国首脳会議=G8)の沖縄開催であった。
1999年春、日本国内では北海道、大阪、福岡、宮崎、沖縄など多くの自治体がサミット誘致に手を挙げていた。外務省や警察庁などが参加国の要望、警備体制などの観点から調査を進め、福岡、大阪が高い評価を得ていた。
沖縄については、アメリカが難色を示していた。当時、外務省は小渕首相に次のように説明していた。
「クリントン大統領は、①在日米軍基地が集中している沖縄の様子が世界にさらされる②ロシア(当時はG8メンバー)に米軍基地の実情を見せれば「手の内を明かす」ことになる――ことを懸念しています」
しかし、小渕首相は粘った。
フォーリー駐日米国大使と接触。クリントン大統領の本音を探った。フォーリー氏は元下院議長で、小渕氏が日米議員交流の日本側メンバーだった時からの友人だ。99年4月、フォーリー氏から「大統領は小渕首相が沖縄で開催したいと言うなら、その意向に従う」との回答があった。小渕氏はさらに、ワシントンにいる斉藤邦彦駐米大使にアメリカ側の意思を確認させた。斉藤氏の返事は「ホワイトハウスは小渕首相の判断を尊重する」だった。4月28日夜、小渕首相は沖縄開催を決断。翌29日に野中広務官房長官が発表した。
小渕氏が沖縄を語る時、必ず触れるのが旧日本海軍の大田実司令官の話だった。大田司令官は米軍との激戦で玉砕を覚悟。沖縄戦で自決する直前の1945年6月6日、海軍次官宛ての電報にこう記した。
「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
沖縄は、米軍との地上戦で20万人もの犠牲者を出し、戦後はアメリカの占領下に置かれた。小渕氏は、しばしば「大田司令官の思いを忘れてはいけない」と話していた。沖縄の苦悩を語る時、小渕氏の目に涙が浮かぶこともあった。
そうした思い、執念が、沖縄サミットの決断につながっていた。
沖縄サミットの開催を発表した直後、小渕首相はアメリカに向かった。ロサンゼルス、シカゴに立ち寄った後、ワシントンでのクリントン大統領との首脳会談に臨んだ。クリントン氏は小渕氏と波長があったようで、後に書いた回顧録でこう述べている。
「私は小渕が好きだった。彼なら混乱する日本の政治をおさめることができる、数年間は首相を務められると思っていた」(注)
クリントン氏は2000年6月、東京の武道館でとり行われた小渕氏の内閣・自民党合同葬に参列。小渕氏が心血を注いだ同年7月の沖縄サミットにも出席して、沖縄の人々と交流した。炎天下の沖縄で握手に応じるクリントン氏のネクタイが汗でびっしょり濡れていたのを、私は目撃している。
外交では多くの成果をあげた小渕政権だが、自自公連立の足元は揺らいでいた。自民、公明両党の蜜月に自由党の小沢一郎氏は危機感を募らせ、自民党に難題を投げかけたのだ。連立合意のうち、衆院の議員定数削減(比例20、選挙区30)の早期実現を迫った。
選挙区での勝利が難しい公明党は、比例区での議席確保が生命線だ。このため、比例区の定数削減には抵抗が強かった。自民党は99年秋の臨時国会では定数削減を先送りしたが、これに小沢氏が連立離脱をちらつかせて反発。翌2000年1月からの通常国会冒頭で比例定数削減が実現した。
小沢氏の揺さぶりはさらに続いた。次期総選挙に向けて自民、自由両党の公認調整を急ぐよう要求したが、自民党は譲歩を渋る。当時、小渕氏は小沢氏の狙いについて、私にこう話していた。
「小沢君は、自民党を解党し、自由党と合併して新しい保守党の結成を求めている。だが、俺は受け入れるつもりはない」。
結局、小渕、小沢両氏の会談は決裂。自民、自由両党の合併は進まず、自由党は連立を離脱することになった。そして小渕氏が予言した通り、自由党の衆参両院議員50人のうち、小沢氏ら24人は連立を離れたが、二階、野田両氏ら26人は連立にとどまり、のちに保守党を結成した。小渕氏が言っていた通り、「自由党分裂」だった。
注 Bill Clinton 『My Life』(Knopf 2004) P827
その会談から約5時間後の2日午前1時ごろ、小渕氏は体調不良を訴え、主治医の車で東京・本郷の順天堂医院に運ばれた。脳梗塞だった。病状はいったん、安定するが、2日夜になって急変。面会した青木官房長官によると、「万事よろしく頼む」とだけ話したという。約1カ月半後の5月14日、小渕氏は帰らぬ人となった。享年62歳。
念願の沖縄サミットを決めた小渕氏。本人が望みながら手がつけられなかったのは財政再建だった。景気対策のための赤字国債を増発して「借金王」と言われた小渕氏だが、私には「必ず汚名返上する。消費税率を上げて財政再建を進める」と語っていた。
小渕氏は田中、竹下派の中枢を歩んだ。しかし、政治信条では財政再建や田園都市構想を掲げた大平正芳元首相を師と仰いでいた。残念ながら、経済の低迷と政治の混乱を建て直すには時間が足りず、志半ばで倒れた。
あれから20年近く……。
「分け入っても 分け入っても 青い山」(種田山頭火)
小渕氏が愛した一句が心に沁みる。
ポスト小渕をどうするか。自民党内は緊迫した。4月2日夕、青木官房長官、森喜朗幹事長、野中広務幹事長代理、村上正邦参院議員会長、亀井静香政調会長が都内のホテルに集まり、後継首相について話し合った。体調不良の池田行彦総務会長は欠席。後に「5人組」の謀議といわれる会合である。
会合に遅れて参加した古賀誠国会対策委員長を含む6人は、「小渕首相が倒れるという緊急事態を受けて、自民党総裁選を行う余裕はなく、小渕政治を継できるのは森幹事長」という流れを作る。自民党内でも表向きは異論が出ず、森氏は5日の両院議員総会で後継総裁に就き、続く衆院本会議で首相指名を受けた。
森氏は1969年衆院初当選。同期に小沢一郎、羽田孜両氏らがいる。党の幹事長、総務会長、政調会長の三役を経験、文相も務めた。森首相は、青木官房長官、宮沢喜一蔵相ら小渕内閣の布陣を引き継いだ。政局の焦点は衆院の解散・総選挙に移っていた。
次回は、森政権の混迷と「加藤の乱」を描きます。3月2日公開予定。
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