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拡大東京入国管理局の庁舎=東京都港区、朝日新聞社ヘリから

 入管法改正案が可決され、これから外国人労働者の受け入れが拡大されることが決められた。これは可決される前も後も繰り返し問われてきたことではあるが、改めて、受け皿が整わないままに間口を広げることで、誰にしわ寄せが及ぶのかを考えたい。その議論の前に問わなければいけないのは、これまで海外から日本に渡って来た人々の安心、安全はどれほど守られてきたのか、そして今どのような状況に置かれているのかではないだろうか。中でも入管(入国管理局)の収容施設内部では、深刻な人権侵害が起きていると指摘されている。その実態を知るために、半年にわたって収容所で暮らしていた男性に話を伺った。

故郷・トルコを離れ、2013年に日本へ

 A.Yさんはトルコ出身のクルド人だ。シリア国境にほど近い故郷の街では、隣国の情勢悪化も相まって、過激派勢力の勧誘の手がそこかしこに広がっていた。「人を殺すことは信仰に反しないのかと批判をすると、人づてにそれが伝わってしまい、“お前は無神論者のか?”、“殺してやる”と脅迫を受けるようになりました」。ある時、兄の家を訪れると、組織に一派と思われる数人が待ち構えていた。「A.Yか?もしお前がA.Yだったら殺す」、「我々は正しい。信仰を無視しているお前とは違う」。こうして脅しは日増しにエスカレートしていった。

 A.Yさんに迫っていたのは、過激派勢力だけではない。トルコには徴兵制があり、20歳になり軍に入れば、同胞であるクルド人の勢力と闘わなければならないかもしれないのだ。「僕はもともと、戦争が大嫌いでした。人を殺すことなんか考えられない。ましてやなぜ、同胞たちと殺し合わなければならないのでしょうか」。軍に入隊すれば、クルド人の彼は仲間内でもスパイ扱いされてしまうだろう。けれども徴兵に応じなければ、逮捕されてしまうかもしれない。だからこそ20歳になる前に、国外へと逃れる必要があった。兄が先に日本に渡っていたこともあり、日本の難民受け入れ基準についても調べてみた。「基準自体を見る限りでは、きっと自分も認められる可能性が高いだろうと思っていました」。2013年、故郷を離れ異国の地へと向かう。A.Yさんが19歳のときだった。その時はまだ、日本の難民認定者の人数がここまで少ないとは知らなかった。

 最初は旅行目的のビザで入ろうとしたものの、難民申請目的で来たのでは、と空港で収容されることになる。兄が弁護士に相談し、10日ほどで解放されたものの、仮放免という立場上、就労は認められない。

拡大A.Yさん(左)とWさん(右)
 とにかくまずは日本語を習得しなければと、アプリで日本の人々とメッセージ交換をしているうちに親交を深めたのが、のちに結婚するWさんだった。「住んでいる街はとてもきれいなところだから一緒にお散歩してみませんか?」とWさんが誘ったのがきっかけだった。「その時は、クルド人という言葉自体を知りませんでした。トルコから来た人なんだな、というくらいで」。最初は翻訳アプリを使いながらの会話ではあったものの、何とかコミュニケーションをとろうと努めるA.Yさんの姿に、Wさんは惹かれていったという。

 ちょうどその頃、A.Yさんは日本に難民申請をしている。一度目の結果が出たのが2015年、Wさんと結婚した直後だった。婚姻届はしっかり受理されたものの、難民認定はおろか在留資格も認められていない上、入管からは不認定の詳しい理由は説明されていない。A.Yさんは異議申し立てをし、結果を待った。


筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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