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スポーツ選手は病とどう闘ったか?

衝撃的だった池江選手の白血病公表。病と闘ったスポーツ選手たちの足跡をたどる

鈴村裕輔 名城大学外国語学部准教授

アジア大会MVPのトロフィーを手に写真撮影に応じる池江璃花子=2018年9月3日、羽田空港アジア大会MVPのトロフィーを手に写真撮影に応じる池江璃花子=2018年9月3日、羽田空港

衝撃的だった池江選手の白血病

 水泳女子の池江璃花子選手が白血病であることを公表し、競技活動を中断して療養に専念することを明らかにしたことは、競泳に興味を持つ人だけでなく、普段は水泳という種目に関心を持たない人々にも大きな衝撃を与えた。

 スポーツにおいて、競技の最中の怪我で療養や長期の離脱、さらには引退を余儀なくされる事例は少なくない。だが、鍛え抜かれた肉体と洗練された躍動的な身のこなしから、競技者の身体の状態は健康そのもので、病気とは無縁であるかのように思われがちだ。それだけに、現在の日本の女子競泳界の頂点に立つ池江選手が白血病に罹病したという事実に、多くの人々が衝撃を受けていると言えよう。

 しかし、スポーツ選手も一人の人間である。現役中に重篤な病気を発症することも当然ある。選手たちは病とどのように闘ったのか。それが、その後の人生にどのような影響を与えたのか。本稿では、スポーツ選手と病とのかかわりについて、代表的な事例を引きながら、たどってみたい。

 ALSに倒れたルー・ゲーリッグ

 スポーツ選手と病と言えば、まっさきに思い浮かぶのが筋萎縮性側索硬化症(ALS)によって37歳で没したルー・ゲーリッグだ。

 ニューヨークの貧困家庭に育ち、苦学してコロンビア大学に進学したゲーリッグは、得意の野球で身を立てようと決心し、1923年にニューヨーク・ヤンキースに入団する。

RONORMANJR/shutterstockRONORMANJR/shutterstock
 控え選手として出発したゲーリッグだが、1925年6月2日に頭痛を訴えたウォーリー・ピップの代役として一塁手で先発出場すると、ダブルヘッダーで合計7打数4安打2点と活躍し、ヤンキースの正一塁手の座を手にする。

 その後、三冠王を1回、アメリカン・リーグのMVPを2回獲得するなど、大リーグを代表する強打者として、1939年4月30日まで2130試合を連続出場する。

 異変は1938年頃からあった。手すりによりかからなければ椅子から立ち上がれなかったり、何の障害物もない球場のグランドの上で突然転倒したり。当初は周囲も本人も、連続して試合に出場しているため、疲れが抜けないものとばかり考えていた。だが、実はゲーリッグの身体はALSに侵されており、筋肉の萎縮と筋力の低下というALS特有の症状が現れ始めていたのだ。

 ALSは今も有効な治療法が確立されていない難病だ。1939年7月4日に開かれた記念式典に集まった観客に、「私はこの世界で最も幸せな人間です」という謝辞を述べて球界を去ったゲーリッグは、2年に及ぶ闘病も空しく、1941年6月2日に没した。

 勤勉で人当たりがよく、人一倍練習熱心だったゲーリッグは対戦相手からも尊敬される偉大な選手であり、試合を休まない頑強さから「鉄の馬」とも称えられた。そのようなゲーリッグをもってしても、ALSを克服することは不可能であった。その死は米国民に大きな衝撃を与え、その壮絶な一生はゲイリー・クーパー主演で映画にもなった(1942年)。

ガンを克服したランス・アームストロングの天国と地獄

 次に挙げたいのが、ガンを克服し、世界最高峰の自転車ロードレース大会であるツール・ド・フランスで前人未到の7連覇を達成した、アメリカのランス・アームストロングである。

 1993年、21歳で世界選手権のロードレースで優勝し脚光を浴びたアームストロングは、ツール・ド・フランスを3回制覇した母国の先輩グレッグ・レモンにちなみ、「レモン2世」という期待がかけられた。しかし、サドルに接している睾丸に感じた、いつもとは違う痛みがひかないことに不安を覚えたアームストロングは、1996年秋に精密検査を受け、睾丸がガンにおかされていること、さらに肺や脳にも転移しており、生存する可能性は50%以下だと宣告されたのである。 

 睾丸をひとつ摘出し脳の一部も手術したアームストロングは、化学療法を受けるなかでいったんは競技への復帰を断念する。だが、闘病生活を送る中でガン患者同士の仲間意識が芽生え、小児がんに苦しむ子どもたちを励ますうちに、自分が現役に復帰して好成績をあげて勇気づけたいと思うようになった。アームストロングは、闘病生活で衰えた筋力や心肺機能を取り戻すため、過酷な練習を重ねる。

 1999年、アームストロングは3週間で3687キロを走破し、アルプス山脈やピレネー山脈を越えるツール・ド・フランスを制した史上2人目のアメリカ人となった。その後、2005年まで大会を連覇したアームストロングは、人気が低迷していたツール・ド・フランスの“顔”として、そして「ガンから奇跡の復活を遂げた鉄人」として世界的な知名度を獲得するに至る。

Pavel1964/shutterstockPavel1964/shutterstock

 頂点を極めたアームストロングだったが、「奇跡の復活」の当初からドーピングの疑惑が絶えなかった。フランスの新聞が「薬物陽性反応が出た」と報道したのだ。確かに手術後、髪を失った頭をベッドの上で動かすことさえ出来なかった若者が、自転車にまたがってアルプスの急な坂道でペダルを漕ぎ続けるのだから、「復活」に疑問を持つ者がいても不思議ではない。

 実際、検査で微量の禁止薬物が検出されていた。これに対し、アームストロング側はアレルギー治療のための塗り薬と申告したため、禁止薬物の不正な使用として処罰されることはなかった。「私のことをうそつきとか、禁止薬物を使っていると書くのはスポーツを知らない一般新聞だからだろう」と言って快走するアームストロングを、人々は信じた。だが、後にその言葉が偽りであったことが明らかになる。

 2012年8月、全米反ドーピング機関はアームストロングに、ツール・ド・フランスの7連覇を含む1998年8月1日以降のすべての王座の剥奪と、トライアスロンを含む全ての自転車競技からの永久追放という厳しい処分を科す。そしてアームストロング自身、テレビ番組の中でドーピングを行った事実を認めた。2013年1月14日のことだった。

 「奇跡の鉄人」は「ドーピングの名人」となり、アームストロングの名声は、「前人未到のツール・ド・フランス7連覇」という記録とともに失われた。

「希望のフィールド」に戻ったブレット・バトラー

 2011年、球団が選手に噛みたばこを供給することが禁止されるまで、大リーグでは選手も監督も、試合中に噛みたばこを口にする光景が一般的だった。しかし、一般に噛みたばこの常用は、舌がんや喉頭ガンの原因になりやすいことが知られている。

 たとえば、大リーグ史上屈指の巧打者として知られるトニー・グウィンが、引退後の2010年に唾液腺ガンに罹患していることを明かし、4年後に54歳で死去した際も、愛用していた噛みたばこが原因と指摘されたものだった。

 そんななか、ブレット・バトラーは現役中に喉頭ガンを発症しながら手術によって克服し、ロサンゼルス・ドジャースなど5球団に在籍して俊足巧打の外野手として活躍した。優れた選球眼と三振をしない高い打撃術で1980年代から90年代の大リーグを代表する1番打者と評されたバトラー。彼が喉頭ガンを宣告されたのは、ドジャース時代の1996年だった。

 最初は事態を受け入れられなかったバトラーが手術を決意したのは、生存率が高まること、そして早期に治療すれば選手として復帰することも不可能ではないという医師の言葉だった。

 他の部位への転移が認められなかったこともあり、手術から4カ月後の96年9月6日に本拠地ドジャー・スタジアムで行われたピッツバーグ・パイレーツ戦に1番・中堅の定位置で先発出場。3打数1安打で2104回目となる大リーグの試合を終えた。

Daniel Padavona/shutterstockDaniel Padavona/shutterstock
 先発選手が紹介された際、ドジャー・スタジアムの4万1509人の観客はみな、客席から立ち上がり、バトラーに拍手と声援を送った。試合後の記者会見でバトラーは「私の幸せは野球を行うことであり、家族や多くの友人の支えがあったから戻ってこられた」と発言、記者の深い共感を呼び起こしている。

 1997年に現役を引退したバトラーは『Field of Hope』(『希望のフィールド』)と名付けられた自伝を出版し、ガンを克服する過程を描くとともに、家族への感謝と深い愛情を綴った。

 さらに、2004年にニューヨーク・メッツ傘下のマイナー・リーグ球団の監督を務めたのを振り出しに、バトラーは通算8シーズン、4つのマイナー・リーグ球団を指揮している。指導者としての手腕の確かさは、AAA級パシフィック・コースト・リーグのリノ・エーシズを率いた2012年に優勝を果たしたこと、2014年から2年間、マイアミ・マーリンズで「監督の右腕」とも言われる三塁コーチをつとめたことからも明らかだ。

 喉頭ガンを克服した1996年、人格者と認められた大リーグ選手に贈られるルー・ゲーリッグ記念賞と、社会奉仕の励行や地域社会に貢献した球界関係者を顕彰するブランチ・リッキー賞を受賞したことが象徴するように、人柄の高潔さでも知られるバトラーは、球界から離れた現在も、自らの体験を踏まえた講演などを行い、人々に希望を失わないことの大切さを伝えている。

 白血病を経て選手から研究者に転身した長島和幸

 2012年のロンドン五輪・パラリンピックへの出場が有望視されながら、急性骨髄性白血病によって五輪への挑戦を断念したのが、レスリング男子の長島和幸だ。

アジア大会で銀メダルをとった頃の長島和幸選手=2011年1月19日アジア大会で銀メダルをとった頃の長島和幸選手=2011年1月19日
 早稲田大学在学中の01年に日本学生選手権で優勝し、06年から10年まで全日本選手権5連覇、08年のアジア選手権で銅メダル、10年の広州アジア大会で銀メダルを獲得するなど、長島は日本のフリースタイル74キロ級を代表する選手だった。ロンドン五輪が開かれる12年は、30歳と選手としても脂の乗った時期だけに、周囲は当然のように長島の活躍に期待した。

 しかし、11年8月末から体のだるさや頭痛を訴えていた長島は、精密検査の結果、急性骨髄性白血病であると診断される。11年12月1日には日本レスリング協会が長島の病状を公表し、闘病支援のための募金を呼びかけた。抗がん剤などによる治療を受けた長島は、12年2月に双子の兄の正彦から骨髄移植を受けて退院する。

 12年9月に福岡大学に赴任した長島だったが、直後に白血病の再発が認められたため、再び闘病生活に入る。13年3月に造血肝細胞の移植に成功。14年4月に復帰を断念し、現在は福岡大学スポーツ科学部の講師、レスリング部副部長として、後進の育成に注力するとともに、スポーツ史とスポーツ哲学を専門とする研究者に転身している。

 長島は、現役時代の粘り強いプレースタイルで日本を代表する選手となった。研究者としての長島は、現役時代さながらに資料に丹念に当たり、田中義一や武田千代三郎、あるいは八田一朗らが日本のスポーツの発展に果たした役割を実証的に研究する、篤実な研究者となっている。

一日も早い快癒とともに……

 白血病は、症状を見極め、病態に応じた治療をすれば、完治も不可能ではない。その意味で、治療に専念し、症状の寛解を最優先するという池江選手の決断は、極めて妥当なものだ。一日も早い快癒を期待したい。

 前述したように、病気とは無縁であるかのように思われがちスポーツ選手も一人の人間であり、現役中に重篤な病気を発症することもある。人々の注目を集める存在だけに、闘病やその後の推移に関心が集まるのも、良しあしは別に自然なことだろう。

 「奇跡の鉄人」と賞賛されたランス・アームストロングがドーピング疑惑を認めた際、人々が批判の声を上げたのも、逆境に打ち勝ち、新たな地平を切り開いたアームストロングの姿が世界中の共感を呼び起こしたからであり、偉業が不正な方法で達成されていたという事実への落胆があったからだ。

 ルー・ゲーリッグが1939年に引退してから70年目にあたる2009年、大リーグ機構はALSを研究する団体への支援を表明した。アームストロングが1997年に設立した、ガン患者と家族を支援するリブストロング財団は、アームストロングが財団の運営から退いた現在も積極的に活動している。

 池江選手の発病は衝撃的で、日本からの特電として世界各国でも大きく取り上げられた。日本国内では、人々の白血病に対する注目が高まり、骨髄バンクへの登録の問い合わせも急増しているという。

 2020年の東京オリンピックへの出場が難しくなったことで「日本の金メダルが減る」と発言して批判された桜田義孝国務大臣の心情も、屈折してはいるものの、池江選手の状態を懸念していることには間違いない。ただ、桜田氏の発言が世論の顰蹙(ひんしゅく)を買ったのは、われわれが池江選手を「五輪で金メダルを取ることが期待されている選手」ではなく、一人の人間として捉えていることを示唆する。

 池江選手の一日も早い快癒を期待するとともに、今回の池江選手の白血病公表によって、日本と世界の人々が白血病で苦しむ人に思いをいたし、主体的に関わるようになれば……。それを切に願っている。