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スポーツ選手は病とどう闘ったか?

衝撃的だった池江選手の白血病公表。病と闘ったスポーツ選手たちの足跡をたどる

鈴村裕輔 法政大学国際日本学研究所客員学術研究員

 ALSに倒れたルー・ゲーリッグ

 スポーツ選手と病と言えば、まっさきに思い浮かぶのが筋萎縮性側索硬化症(ALS)によって37歳で没したルー・ゲーリッグだ。

 ニューヨークの貧困家庭に育ち、苦学してコロンビア大学に進学したゲーリッグは、得意の野球で身を立てようと決心し、1923年にニューヨーク・ヤンキースに入団する。

RONORMANJR/shutterstock拡大RONORMANJR/shutterstock
 控え選手として出発したゲーリッグだが、1925年6月2日に頭痛を訴えたウォーリー・ピップの代役として一塁手で先発出場すると、ダブルヘッダーで合計7打数4安打2点と活躍し、ヤンキースの正一塁手の座を手にする。

 その後、三冠王を1回、アメリカン・リーグのMVPを2回獲得するなど、大リーグを代表する強打者として、1939年4月30日まで2130試合を連続出場する。

 異変は1938年頃からあった。手すりによりかからなければ椅子から立ち上がれなかったり、何の障害物もない球場のグランドの上で突然転倒したり。当初は周囲も本人も、連続して試合に出場しているため、疲れが抜けないものとばかり考えていた。だが、実はゲーリッグの身体はALSに侵されており、筋肉の萎縮と筋力の低下というALS特有の症状が現れ始めていたのだ。

 ALSは今も有効な治療法が確立されていない難病だ。1939年7月4日に開かれた記念式典に集まった観客に、「私はこの世界で最も幸せな人間です」という謝辞を述べて球界を去ったゲーリッグは、2年に及ぶ闘病も空しく、1941年6月2日に没した。

 勤勉で人当たりがよく、人一倍練習熱心だったゲーリッグは対戦相手からも尊敬される偉大な選手であり、試合を休まない頑強さから「鉄の馬」とも称えられた。そのようなゲーリッグをもってしても、ALSを克服することは不可能であった。その死は米国民に大きな衝撃を与え、その壮絶な一生はゲイリー・クーパー主演で映画にもなった(1942年)。


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筆者

鈴村裕輔

鈴村裕輔(すずむら・ゆうすけ) 法政大学国際日本学研究所客員学術研究員

1976年、東京生まれ。法政大学国際日本学研究所客員学術研究員。法政大学大学院国際日本学インスティテュート政治学研究科政治学専攻博士課程修了・博士(学術)。専門は比較文化。主著に『メジャーリーガーが使いきれないほどの給料をもらえるのはなぜか?』(アスペクト 2008年)、『MLBが付けた日本人選手の値段』(講談社 2005年)がある。日刊ゲンダイで「メジャーリーグ通信」、大修館書店発行『体育科教育』で「スポーツの今を知るために」を連載中。野球文化學會会長、アメリカ野球愛好会副代表、アメリカ野球学会会員。

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