日産の経営・ガバナンスが直面した異文化マネージメント力の問題とは
2019年02月18日
ゴーン・前日産会長がプライベートジェットで日本に着いた時点で逮捕されたことは、少なくとも彼が飛行機に乗った時から準備が始まっていたことを示唆している。日産の43%の株式を持つルノーは、その動きを察知できなかったのだろうか。
一般的に、経営権を持つほどの大株主は役員とともに担当者も派遣する。また出資を受けた企業内には、大株主との関係を良くして出世など自身の立場の向上に繫(つな)げようとする職員がでてくる。これは古今東西に見られる「経験則」であり、大株主側はこうした投資先の社員との関係をも駆使してスムーズな経営を図る。クロスボーダーM&Aを行った日本企業の方は、多かれ少なかれ同様の経験をしているはずだ。
ルノーもまた、通常の大株主として日産内の様々な部署、例えばゴーン前会長側近や、財務、コンプライアンス、監査、技術など各部門から個々に情報を得ていただろう。そのなかにはかなり早い段階から今回の逮捕に繋がるような情報もあったかもしれない。
ここで再びゴーン逮捕の日の西川広人社長の記者会見をみてみよう。
西川氏はゴーン会長を解任する理由について、(いつかは特定しなかったが)内部通報を監査役が吟味して今回の一件に至ったと述べている。クーデターというものは、一部の経営陣による秘密裏の行動なのが普通だが、日産の場合は社内のそれなりの数の人が知るなかでの行動だった可能性を意味する。そこには、ルノー側の人物が含まれていたことは十分予想される。
やや大胆な想定をすると、ルノーは情報を入手しながら、この動きを止めなかったのではないか。
また、日産の取締役会において、数の上では日本人が過半数を占めていたにもかかわらず、解任決議が逮捕の後になったことで、ルノーとしてはそれを放置した日産のガバナンスを問題視し、その改善のために経営統合を進める強いリーダーシップを持つ会長を送り込むという選択も可能になる。
いずれにせよ、両社の将来の交渉や力関係を考えれば、日産から先に動いてもらうことは歓迎だった。
フランス流の深謀遠慮である。
日産とルノーの今回の行動を考えるにあたり、幕末の幕府とフランスの関係が参考になる。
当時、薩長と激しい駆引きを展開する幕府に対し、フランスは表向き中立を維持しながらも、徳川家中心の政権維持とそのための戦闘を期待した。見立てとしては、必ずしもイメージが一致しないかもしれないが、日産の西川社長が徳川慶喜、表からは見えない日産の主要人物は幕臣、ゴーン前会長は西郷隆盛で、ルノーやフランス政府はロッシュ公使と当時のフランス政府である。
徳川慶喜は、英国領事館書記官のアーネスト・サトウが「日本人が考えているのはアメリカ型の議会のようだ」と日記に書いているように、大政奉還後には自分を大統領とする議会開設を目指していた。フランスは徳川家茂の時から横須賀製鉄所の建設や幕府陸海軍の創設など、全面的に幕府体制の近代化を支援してきている。フランスは幕府最大のステークホルダーだった。
小栗忠順の案は、薩長軍が駿河湾まで来たところで、海からは榎本武陽率いる海軍で砲撃し、陸では幕府陸軍で攻めるというもので、勝海舟も講和がならなければ、同様の策で戦う腹づもりだったらしい。このとき、幕府はフランスから軍艦を借入れることも考えていた。しかし、英国とともに中立を維持する立場を取っていたロッシュはこの申入れを断っている。
一方、1月11日に神戸で薩長方の岡山藩兵の隊列をフランス水平が横切るという事件が起きている。これを契機に撃合いとなり、フランス、英国、アメリカなどが神戸一帯を占領するという神戸事件が発生した。東上を前に背後を外国に占領されたことに慌てた西郷は、急ぎ岡山藩家老と面談して、事態収拾を図るという事態に直面している。
このようにフランスは、慶喜が薩長軍を倒し、徳川家中心の議会制の新政権を樹立できるように、陰に陽に支援したのである。
長らく薩長を焚き付けてきた英国公使パークスも、実は内戦を望んでいたようだ。しかし、本国の首相がパーマストン子爵からラッセル伯爵に代わり、新たに外相となったクラレンドン伯爵の命令で内戦には中立でのぞむことになったため、西郷から求められた江戸攻撃のための大砲の提供を拒否している。
こうした状況下、よく訓練され、装備や数の上でも薩長軍にまさっていた近代的装備の幕府陸軍と、当時の日本では圧倒的だった幕府海軍を使えば、仮に慶喜がロッシュ公使の意見具申を受け入れて戦っていれば、勝利を収めたかもしれない。
だが、駿河湾で薩長軍を迎え撃つという策は、慶喜にとっては、神君徳川家康が打った手のほとんどを犠牲にするものでもあった。家康は、東海道に紀伊、尾張という御三家のうちの二つ、さらに桑名藩などを配置したうえ、それを加護するべく駿河湾に面した久能山東照宮のご神刀の刃先を西に向けて徳川家の無事を祈った。物心両面の対応をしたのだ。
駿河湾で戦うということは、これらのすべての藩が西郷に下ることを前提として一戦を交えるということを意味する。
現実には、会津藩のあとに禁裏警護を命じられた越前藩などが薩長寄りとなったほか、尾張藩や小浜藩等が早々と薩長に恭順の意を示し、その後の北越戦争や会津戦争では薩長側で参戦した。つまり、鳥羽・伏見の戦いの直後に大阪城で戦うという構想の場合とは異なって、慶喜が思い描いていた議会制を構成するはずの幕府側雄藩の多くは、駿河湾で戦う前にすでにバラバラになっていたのである。また、鳥羽・伏見の戦いがそうであったように、幕府には強力な軍を指揮できる有能な指揮官がいなかった。
家康の時代なら、雌雄を決した戦いに勝って論功行賞を行なえば良かったが、清国の実情などを見れば、幕末期の戦争は戦いの後を考えておく必要がある。慶喜が戦いに勝ったとしても、その先に苦難の道が待っていたかもしれない。表向き中立を示していたフランスや英国も、その後の展開次第ではどう動いたかわからない。
結局、慶喜は
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