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大本営跡トンネルに刻まれたハングル落書き

1945年元旦、長野市松代の地下巨大工事に動員された朝鮮人青年は何を想ったか

徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

*この記事は筆者が日本語と韓国語の2カ国語で執筆しました。韓国語版(한국어판)でもご覧ください。

未完のまま放置された地下巨大施設

 筆者がこの原稿を書いている今日(2019年2月5日)は旧暦の1月1日、韓国のお正月(ソルナル)だ。

 韓国でもっともたいせつな祝日である「ソルナル」には、ほとんどの韓国人が実家に戻って先祖に祭祀を捧げる。そして、親や周囲の大人に「歳拝」(セベ、新年の挨拶)を差し上げ、「徳談」(ドクダム、幸運を祈る言葉)を交わす。

 筆者はこれからあるトンネルに刻まれたハングルの落書きについて書くが、その青年がそれを書いたのもおそらくは1945年の元旦のことであっただろうと考えている。

拡大「松代大本営」遺跡の地下トンネル=長野市HPより

 筆者は2008年2月から一年間、当時韓国で在職していた延世大学校で海外研究年(研究のための特別休暇)を与えられ、現在の勤務校である明治学院大学の招聘教授として日本に滞在した。赴任してまもなく、日韓の歴史研究プロジェクトの現場踏査プログラムに招待された。

 それが初めての松代大本営跡(現長野市松代)へのフィールドワークであった。その時の記憶は十年経った今もなお鮮やかで忘れられない。

 同行した仲間たちと地元の市民運動団体の案内人の助力のおかげで、ふだんから車椅子を利用する筆者が、あろうことか深い地下坑道に潜って、そこをくまなく見学することができたのである。

 それは想像を超えた規模であった。が、筆者を動かしたのはそれだけではない。歴史の重さとでもしか言いようのないもの、松代大本営工事に動員された日韓両国の労働者、特に朝鮮人被強制徴用者の受難の歴史が心に重くのしかかってきたのだ。

 その工事は、1944年11月から終戦翌日まで続けられたという。もちろん未完のまま放置されたが、幅4メートル、高さ2.5メートルの地下トンネルに戦車まで行き来することができたというこの巨大な施設は、戦争の最後の最後まで持ちこたえ、抗戦することができるようにと建造された。もっとも長いものは、地下13キロにも及ぶ要塞として建設中だった。

朝鮮人7000人と日本人3000人が動員された

 アジア太平洋戦争の末期、日本は最後の本土決戦に備えて国土の要塞化を計画し、着手した。そのとき、大本営候補地となったのが長野市松代地域を中心とする一帯であった。

 1944年11月11日、最初の発破作業で工事が始まった。作業員は徴用された日本人労働者と朝鮮半島で動員された朝鮮人被徴用者が中心であった。朝鮮人約7000人と日本人3000人が、初期には8時間三交代、後半には12時間二交代で工事をおこなった。工事関係者延べ人数61万人余、当時の金額で2億円の総工費が投入された。

 現在残っているトンネルの長さだけでも総延長11.5キロに達する。ここには天皇の御所はもちろん、国家中央機関、戦争指揮部の大本営をすべて移転する計画だった。

 しかし1945年8月15日、終戦宣言により75%の完了時点で工事は中止された。そしてこの工事に際して、多くの労働者が工事中の事故やその他の理由で犠牲となった。動員された7千人余りの朝鮮人労働者について、数百人が命を失ったと記録されている。彼らはもっとも危険な発破作業などに従事させられたという。


筆者

徐正敏

徐正敏(そ・じょんみん) 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

1956年韓国生まれ。韓国延世大学と大学院で修学。日本同志社大学博士学位取得。韓国延世大学と同大学院教授、同神科大学副学長、明治学院大学招聘教授、同客員教授を経て現職。アジア宗教史、日韓キリスト教史、日韓関係史専門。留学時代を含めて10年以上日本で生活しながら東アジアの宗教、文化、社会、政治、特に日韓関係を研究している。主なる和文著書は、『日韓キリスト教関係史研究』(日本キリスト教団出版局、2009)、『韓国キリスト教史概論』(かんよう出版、2012)、『日韓キリスト教関係史論選』(かんよう出版、2013)、『韓国カトリック史概論』(かんよう出版、2015)、『東アジアの平和と和解』(共著、関西学院大学出版会、2017)など、以外日韓語での著書50巻以上。

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