平成政治の興亡 私が見た権力者たち(11)
2019年03月02日
2000(平成12)年4月に発足した森喜朗政権は苦難続きだった。そもそも森氏を総理・総裁に決めたプロセスに問題があった。青木幹雄官房長官や亀井静香政調会長ら「5人組」による「密室談合」という批判がつきまとっていた。
森首相の失言も政権への逆風を加速した。5月15日、森首相は都内の会合で「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」と述べた。これが「神の国発言」として野党から非難を浴びた。6月には「民主党は共産党と組むのか。そういう政党とどうやって国体を守るのか」という時代錯誤の発言をして、自民党内からも批判された。
それでも、7月の沖縄サミット、10月の衆院議員の任期満了を控えて、衆院解散・総選挙のタイミングを選ぶとすれば、選択肢は通常国会会期末の6月しか残っていなかった。森首相は6月2日、衆院を解散。“ミレニアム総選挙”は13日公示、25日投票と決まった。
当時、各地を取材したが、自民党と公明党が連立を組んで初めての国政選挙とあって、お互い、戸惑いながらの選挙戦だった。地方では、自民党候補の後援会が公明党・創価学会とはしっくりいかず、冷めていた選挙区が多かった半面、都市部では、創価学会員が自民党の選挙事務所に入り、一体となった運動を繰り広げている選挙区が見られた。自公の選挙協力はその後、回数を重ねるごとに深化していく。
定数480(選挙区300、比例区180)を争った総選挙の結果は、自民党が233議席で単独過半数(241)には届かなかったが、公明党(31議席)と保守党(7議席)を合わせると与党は271議席と過半数を確保した。一方、民主党は127議席、自由党22議席、共産党は20議席だった。森首相は開票後の会見で「引き続き政権を担当せよというのが民意だ」と述べ、政権は継続した。
総選挙後の組閣で森首相は、宮沢喜一蔵相、河野洋平外相、堺屋太一経企庁長官ら主要閣僚を続投させた。官房長官は青木幹雄氏から森首相側近の中川秀直氏に代わった。
総選挙とサミットを乗り切った森首相だが、政権の勢いは依然、弱いままだった。10月には中川官房長官の「女性問題」が週刊誌で報じられ、辞任に追い込まれる。後任に小泉純一郎氏が浮上するが、本人が「俺は女房役には向かない」と固辞。同じ森派の福田康夫氏を推し、福田氏が就任した。これが、半年後の「小泉首相」誕生の伏線となる。
中川官房長官の辞任で森政権が揺らぐ様子を、政権取りのチャンスと虎視眈々(たんたん)とうかがっていたのが加藤紘一氏である。
11月9日夜、私は田中角栄元首相の秘書で政治評論家の早坂茂三氏から電話を受けた。「加藤紘一が意味不明のことを言っていた」という。
この夜、早坂氏のほか、読売新聞主筆の渡辺恒雄氏や政治評論家の三宅久之氏らが、国会近くのホテルで開いた会合に加藤氏が招かれ、政局談議になった。11月に予定されている内閣改造・自民党役員人事に話が及ぶと、加藤氏は「森さんに改造はできるのか」「森政権を続けさせていいのか、考えている」と話したという。
出席者の大半は最初、加藤氏の言っていることの意味が飲み込めなかったそうだ。それでも、出席者の一人、政治評論家で森政権の内閣官房参与でもあった中村慶一郎氏は「これは倒閣宣言ではないか」と気づき、その日のうちに森首相に伝えていた。
翌10日朝、「加藤氏の倒閣宣言」が一気に広がる。開会中の臨時国会で野党が提出する内閣不信任案に加藤氏らが賛成すれば、可決されるかもしれない。その場合は内閣総辞職か衆院解散・総選挙だ。政界は大騒ぎになった。
6月11日昼、加藤氏から「いまの心境を話したい。インタビューに応じてもよい」という連絡がきた。同日夜、東京・赤坂のホテルで単独インタビューした。やりとりの全文を新聞に掲載するため、朝日新聞政治部の同僚5人が同席。次々とメモを取って、パソコンで原稿を送った。
加藤氏の答えは歯切れよかった。「今の内閣のままでは、わが国が壊れていく」「(状況は)森政権への批判の域を超えた。(政治を)変え得ない自民党の内部が問われている」と決意を強調。具体的な対応として、「まず、自民党の中で危機意識を訴え、広げていきたい。それでも変えることができなければ、そのほかのいろいろな道を、枠を広げて考えていかなければならない」と述べた。野党が提出する不信任案に賛成して、森政権を終わらせる。倒閣宣言だった。
翌朝の朝日新聞は、1面トップで、加藤氏「首相退陣要求を明言」「野党と連携を視野」と大々的に報じた。
加藤氏は、盟友の山崎拓氏と共に、内閣不信任案に同調する議員を固める。一方、野中広務幹事長や森首相の側近だった小泉純一郎氏は、加藤、山崎両氏の陣営の切り崩しに動く。当時、普及し始めたインターネットでは、加藤氏を応援する声が、またたく間に広がっていく。
そこで、野中氏は驚くべき手を打つ。加藤派や山崎派に所属する議員の後援会幹部の連絡先を調べ、直接、電話したのだ。電話をかける場に同席していた自民党本部の職員によると、野中氏は後援会幹部たちに、次々とこう話しかけたという。
「幹事長の野中です。おたくの○○先生が野党提出の不信任案に賛成するかもしれない。困ったことです。バカなまねはするなと、話していただけませんか?」
後援会幹部たちは驚き、ただちに議員を説得する。加藤氏に同調する予定だった中堅・若手の議員が、次から次へと切り崩された。
11月20日。民主党など野党が提出した森内閣不信任案が、衆院本会議で採決されることになった。国会近くのホテルには加藤派と山崎派の議員が結集した。しかし、ほとんどの議員は本会議で不信任案に賛成する覚悟はない。せいぜい欠席して森政権への批判的姿勢を示そうという程度だった。野中氏の作戦が効いていた。
切り崩しの現実を知った加藤氏が、悲壮な面持ちで演壇に立った。そして、自分ひとりでも本会議に出席して、賛成票を投じるつもりだと述べようとした。そのとき、加藤氏の側近、谷垣禎一氏が加藤氏に駆け寄った。
「ひとりで行こうなんて、ダメですよ。あんたは大将なのだから」
加藤氏を制する谷垣氏。テレビで何度も伝えられたシーンである。加藤氏の目には涙が浮かんでいた。
自民党の有力者が、野党が提出した内閣不信任案に同調する構えを見せて政権を揺さぶる。戦後政治の中でも前代未聞の「加藤の乱」は、本人の決意表明から12日間、2週間弱であっけなく幕を閉じた。
一連の経過に目を凝らしていたのが、野中氏とともに乱の鎮圧を進めた小泉純一郎氏である。小泉氏は小選挙区制の下では、公認と資金配分の権限を握る党執行部の力がいかに強力で、派閥の存在感が急速に衰えている現実を目の当たりにした。その経験が小泉政権下の郵政解散につながっていくのだが、それは後の話。
「加藤の乱」を押さえ込んだ野中幹事長は、橋本龍太郎政権で加藤幹事長のもと、幹事長代理を務め、肝胆相照らす仲だった。実は、森首相より加藤氏に親近感を持っていた野中氏は12月1日、「幹事長として混乱の責任をとる」と辞任を表明。後任には古賀誠国会対策委員長を推し、森首相は受け入れた。
後に、野中氏から「加藤の乱」当時の心境を聞いた。「加藤さんの気持ちは痛いほど分かっていたが、この乱を容認すれば、政権が一グループの造反で壊れる事態を幹事長として許すことになり、自民党の歴史に汚点を残すと考えた」という。野中氏は「筋を通す」ことにこだわった。
幹事長人事に連動して、森首相は内閣改造に踏み切った。翌2001年1月6日からの中央省庁再編(1府22省庁を1府12省庁に統廃合)に伴い、閣僚数が大幅に削減されることに備えた改造だった。
自治省、郵政省、総務庁が合体して発足した総務省。初代総務相には片山虎之助氏が就任。建設省、運輸省、国土庁が統合された国土交通省の大臣には保守党の扇千景氏。厚生省と労働省は厚生労働省となり、大臣には公明党の坂口力氏が起用された。橋本政権が法整備を進めた省庁再編はこれで完結した。橋本氏は行政改革・沖縄・北方対策担当相として入閣した。
21世紀が始まり、新たな布陣で通常国会に臨んだ森政権だが、「加藤の乱」の傷は深く、支持率は低迷していた。悪いときには悪いことが重なる。予想もしなかった大事故が起きた。
日本時間2月10日朝、ハワイ・オアフ沖で愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が米海軍の原子力潜水艦に衝突されて沈没した。乗員35人のうち、教員5人と生徒4人の計9人が死亡した。事故が起きたとき、森首相は休みをとって横浜市内のゴルフ場で友人とプレーをしていた。
事故への対応は後手に回り、アメリカのブッシュ大統領と電話で協議したのも、発生から3日後の2月13日だった。森首相の危機管理のまずさが批判された。内閣支持率はさらに低下した。
自民党内では「森首相では夏の参院選が戦えない」という意見が噴出する。とどめを刺したのは、政権与党の公明党だった。3月に入ると公明党の神崎武法代表が、「13日の自民党大会にはすっきりした気持ちで出席したい。自民党には自己改革を期待する」と発言。事実上の森首相退陣要求だった。
後に神崎氏は私の取材にこう語っている。「公明党が自民党のことに口を出していいのか迷った。だが、参院選が迫っており、申し訳ないが、森さんにはやめてもらうしかないと思った。だから、腹をくくって発言した」
森首相は3月10日夜、公邸に古賀幹事長ら自民党幹部を集め、退陣する意向を表明した。「5人組」の密室での話し合いで誕生した森政権は、ほぼ1年で幕を閉じた。退陣表明もまた「密室」でおこなわれた。
森氏は自民党の幹事長など三役を歴任し、派閥では福田赳夫、安倍晋太郎両氏らに仕えるなど、「永田町の調整役」を果たしてきた。ところが、首相の役回りは、森氏が中堅として活躍した時代とは大きく変わっていた。
衆院への小選挙区の導入、テレビ政治の伸長……。首相自らがメディアに露出し、世論にアピールしなければならなくない時代になっていた。そうした首相の役回りは、森氏には荷が重かったのだろう。
森氏は首相退任後、小泉氏や安倍晋三氏の後見役を務め、東京五輪・パラリンピックの組織委員長に就任。「調整役」として本領を発揮している。
自民党では、後継総裁・首相選びがはじまる。小泉純一郎氏が3度目の挑戦を表明。森首相も支持を約束した。最大派閥の橋本派では、野中氏擁立の動きがあった一方で、橋本氏の再登板を求める声が強く、結局、橋本氏が出馬した。だが、参院自民党幹事長だった青木幹雄氏は「橋本氏では、自民党は参院選で勝てない」と判断。水面下で小泉氏と接触していた。総裁選は4月11日に告示され、麻生太郎、亀井静香両氏も加わって4人で争われた。
気を良くした小泉氏は髪を振り乱して、「改革」を訴えた。具体的な政策があったわけではないが、「既得権にしがみつくなら自民党をぶっ壊す!」という演説が、世間の喝采を浴びた。
小泉氏の戦略は明確だった。街頭演説を重ねて、総裁選の投票権がない一般市民に訴えかける。それが自民党員に影響を及ぼし、やがて国会議員にも波及する。自民党を「外側」から攻める作戦だった。一方で、小泉氏は橋本陣営の本丸にも手を伸ばしていた。自民党の有力支持団体である日本遺族会に対して、「首相になったら靖国神社を参拝する」と約束したのだ。それまで日本遺族会と関係が深かったものの、首相としての靖国参拝には否定的だった橋本氏との「違い」をアピールする狙いがあった。
小泉氏の作戦は当たった。都道府県に3票ずつ割り振られた地方票141票のうち、小泉氏は123票を獲得。橋本氏は15票にとどまった。国会議員を合わせた24日の本選挙では、小泉氏が298票を集め、155票の橋本氏に大差をつけた。
26日、小泉新総裁は衆院本会議で宿願の首相指名を受けた。田中真紀子氏が「変人」と名付けた小泉氏の政権がスタートした。
※次回は、「変人」小泉政治の隆盛を描きます。3月16日公開予定。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください