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小沢一郎「もっと早く政治改革できたのだが…」

(2)小沢の政治改革の核心は小選挙区制度にある

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

国民民主党のWEB番組に同党の玉木雄一郎代表(右)とともに出演した自由党の小沢一郎代表=2019年1月25、東京・永田町

勝敗のはっきりする小選挙区制度

 文字通りの政治決戦とされる今年夏の参院選、場合によっては衆参ダブル選挙に向かって小沢一郎が動きを強めている。過去に二度も自民党政権をひっくり返したその眼力と行動力にがぜん注目が集まっている。

 その小沢は、ロング・インタビューを重ねた私に対し、三度目の政権交代について「やる」と異様な力強さを込めて宣言した。立憲民主党代表、枝野幸男の言動はそんな小沢に比べておとなしく見える。野党第一党でありながら、むしろ小沢の方に熱い視線が集まってしまう由縁だ。

 政権交代に異様なほどの執念を見せる小沢は、言ってみれば「運命の人」だ。若くして就いた自民党幹事長時代、人類史的な冷戦終結後初めての戦争である湾岸戦争にもまれ、平和憲法を抱えながらの「国際貢献」の道を手探りで模索し、予想外に冷たい海外からの反応に呻吟しなければならなかった。

 憲法と国際貢献、また安全保障政策など国の根幹にかかわる問題をごまかすことなく国会で論議するために、固定化した万年与党と万年野党の支配する「55年体制」を崩し、政権交代可能な二大政党制の構築を目指す。これが小沢の政治的課題であり自らの運命として受け容れる政治的使命だ。そして、その最有力の手段となるものが、まさに二大政党制を生みやすく、勝敗のはっきりする小選挙区制度だ。

「あの時受けていれば、もっと早く政治改革ができたかなあ」

 この運命に向かって刻々と時を刻む人生の歯車が小沢の前できしりながら急回転していくのは1991年だ。湾岸戦争が終結し、海部俊樹内閣が終幕を迎えつつある中、国際貢献と二大政党制を考える小沢に運命の女神が悪戯っぽく微笑みかける。

 最大派閥でありながら自派閥から首相を出すことのできない竹下派内に不満が高まり、この時49歳の小沢に首相候補の声がかかった。

 小沢に声をかけたのは竹下派会長の金丸信だった。インタビューに答えた小沢によれば、1991年10月初旬のこの時「朝から夜まで」金丸に説得され続けた。このころ実質的に竹下派を担っていたのは金丸と前首相の竹下登、それに小沢の3人だった。

 しかし、説得されながらも小沢の頭には二大政党制を目標とする政治改革があった。金丸は自分を首相にすべく懸命に説得に努めているが、その金丸本人と竹下は本音の部分では必ずしも政治改革に積極的ではない。

 この体制の中でたとえ自分が首相の座に就いても、思うような改革はできないだろう。説得を続ける金丸の言葉の下で、小沢はそう読んでいた。

「あの時受けていれば、もっと早く政治改革ができたかなあ」

 と小沢は振り返るが、この時の小沢は自身の運命的課題の前に慎重な姿勢を貫いた。その気になれば首相になれた小沢が「キングメーカー」金丸の口説きを最後まで受け容れなかったことは、自らの政治的使命に忠実な小沢の基本姿勢をよく表わしている。

「小沢面談」による首相本命は渡辺美智雄だった

 結局、自派から首相候補を出すことができなかった竹下派は、他派閥候補の中から選ばざるをえなかった。選択の最終判断は派閥会長の金丸に一任し、選択判断の前段として小沢が候補者に「面談」することになった。

 ここから先の話は小沢自身の証言による。その話はユーモラスなエピソードである反面、小沢にとってまさに深い運命の時が奔流のように一気に流れ出す時間を語ってもいる。

 1991年10月10日午後3時、東京・永田町二丁目の十全ビルヂング3階、小沢の個人事務所に元蔵相の宮沢喜一が訪ねてきた。小沢はわざわざエレベーターまで迎えに出た。首相候補に名乗りを挙げた宮沢や渡辺美智雄、三塚博の3人と個別に面談するためだが、まるで「面接試験」のようだと揶揄されていたため小沢も一人ひとりを迎えるにあたっては気を遣わなければならなかった。

 三人との面談をそれぞれに終えた小沢は金丸と竹下と「首相選び」の相談に入った。この時、朝日新聞をはじめとするマスコミは宮沢本命の報道をしていた。面談の3日前の10月7日の朝日新聞夕刊1面では、最大派閥の竹下派は小沢説得に努めながらも水面下では宮沢支持が広がっていることを伝え、さらに小沢が面談した10日の朝刊1面では「竹下派、宮沢氏支持へ」と打っている。

 しかし、いま当事者の小沢が明かす本当の「水面下」は宮沢本命では動いていなかった。実は、金丸、竹下、小沢の3人が出した結論は、宮沢ではなく「渡辺みっちゃん」こと渡辺美智雄だった。

 実を言えば、党人派の3人は大蔵官僚出身の宮沢について「決断力がない」と低い評価しか与えていなかった。「お公家さん」の政治スタイルに肌合いが合わず、むしろ「野武士」のような渡辺に肌合いも政治スタイルも共感するものを感じていた。渡辺を海部の後の首相にすることに3人とも異存はなかった。中でも金丸は上機嫌で「渡辺首相」を支持した。10日の夜はこうして終わった。

自民党総裁選で小沢一郎・竹下派会長代行(左)との会談に臨む宮沢喜一氏。小沢氏は国会近くの自らの事務所に宮沢喜一、三塚博、渡辺美智雄3氏をそれぞれ招き、政策など総裁選に臨む考え方を聴いた=1991年10月10日、東京・永田町の小沢事務所

金丸信の妻のこと

 ところが翌11日の朝、小沢にとって意表外なことが起こった。自ら「渡辺」と決定を下したはずの金丸が頭を下げてきたのだ。

 「すまない。渡辺はやめてくれ。宮沢に代えてくれ」

 呆然とする小沢は竹下と顔を見合わせたが、一任を取り付けた金丸が頭を下げて頼み込む姿に、その翻意を認めないわけにはいかなかった。

 一夜にして金丸の判断はなぜ変わったのだろうか。その時小沢は先輩である金丸を問い詰めることはしなかったが、金丸の妻、悦子の影響があったのではないか、という説を後日耳にした。

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