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小沢一郎「もっと早く政治改革できたのだが…」

(2)小沢の政治改革の核心は小選挙区制度にある

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

「小沢面談」による首相本命は渡辺美智雄だった

 結局、自派から首相候補を出すことができなかった竹下派は、他派閥候補の中から選ばざるをえなかった。選択の最終判断は派閥会長の金丸に一任し、選択判断の前段として小沢が候補者に「面談」することになった。

 ここから先の話は小沢自身の証言による。その話はユーモラスなエピソードである反面、小沢にとってまさに深い運命の時が奔流のように一気に流れ出す時間を語ってもいる。

 1991年10月10日午後3時、東京・永田町二丁目の十全ビルヂング3階、小沢の個人事務所に元蔵相の宮沢喜一が訪ねてきた。小沢はわざわざエレベーターまで迎えに出た。首相候補に名乗りを挙げた宮沢や渡辺美智雄、三塚博の3人と個別に面談するためだが、まるで「面接試験」のようだと揶揄されていたため小沢も一人ひとりを迎えるにあたっては気を遣わなければならなかった。

 三人との面談をそれぞれに終えた小沢は金丸と竹下と「首相選び」の相談に入った。この時、朝日新聞をはじめとするマスコミは宮沢本命の報道をしていた。面談の3日前の10月7日の朝日新聞夕刊1面では、最大派閥の竹下派は小沢説得に努めながらも水面下では宮沢支持が広がっていることを伝え、さらに小沢が面談した10日の朝刊1面では「竹下派、宮沢氏支持へ」と打っている。

 しかし、いま当事者の小沢が明かす本当の「水面下」は宮沢本命では動いていなかった。実は、金丸、竹下、小沢の3人が出した結論は、宮沢ではなく「渡辺みっちゃん」こと渡辺美智雄だった。

 実を言えば、党人派の3人は大蔵官僚出身の宮沢について「決断力がない」と低い評価しか与えていなかった。「お公家さん」の政治スタイルに肌合いが合わず、むしろ「野武士」のような渡辺に肌合いも政治スタイルも共感するものを感じていた。渡辺を海部の後の首相にすることに3人とも異存はなかった。中でも金丸は上機嫌で「渡辺首相」を支持した。10日の夜はこうして終わった。

拡大自民党総裁選で小沢一郎・竹下派会長代行(左)との会談に臨む宮沢喜一氏。小沢氏は国会近くの自らの事務所に宮沢喜一、三塚博、渡辺美智雄3氏をそれぞれ招き、政策など総裁選に臨む考え方を聴いた=1991年10月10日、東京・永田町の小沢事務所

金丸信の妻のこと

 ところが翌11日の朝、小沢にとって意表外なことが起こった。自ら「渡辺」と決定を下したはずの金丸が頭を下げてきたのだ。

 「すまない。渡辺はやめてくれ。宮沢に代えてくれ」

 呆然とする小沢は竹下と顔を見合わせたが、一任を取り付けた金丸が頭を下げて頼み込む姿に、その翻意を認めないわけにはいかなかった。

 一夜にして金丸の判断はなぜ変わったのだろうか。その時小沢は先輩である金丸を問い詰めることはしなかったが、金丸の妻、悦子の影響があったのではないか、という説を後日耳にした。

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筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

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