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小沢一郎「生き残るには我々自身が変わらなきゃ」

(3)小沢一郎と憲法「9条4項か10条で国連中心主義を」

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

法哲学者・井上達夫の言葉

 20世紀スペインの哲学者オルテガの言う「自己の根をもった生」「真正な生」を生きる類いまれな政治家、それが小沢一郎なのだという言葉で私は前回の『小沢一郎戦記』を締めくくったが、21世紀日本の法哲学者、井上達夫もほとんど同じことを言っている。

「経済構造も安全保障の問題も国論を真っ二つに割るほど難しくなっている。そういうことをきちんと議論しなければならない。そう考えて小沢さんは55年体制を壊そうとしたんだ。小沢さんは自分の権力欲では動いていない。日本の政治的決定システムをどうするかというそのことを真面目に考えて動いている。世間から誤解されているが、それを考えている数少ない政治家なんだ」

 2016年10月27日、国会の向かいにある憲政記念館の満席の講堂に井上のトーンの高い声が響き渡った。首相の安倍晋三が改憲を強く打ち出し続ける中で開かれた小沢と井上の「緊急対談」だった。自民党と公明党という与党勢力が衆参とも改憲発議に必要な3分の2以上の議席を占める政治的現実に対し、憲法9条をどう変えていくか、あるいはどう残していくか、小沢と井上の間で議論が火花を散らす中で井上の発言は飛び出した。

「小沢さんは、政党と政党が政策をめぐって競争し、責任をはっきりさせるような政治的決定システム、政党の責任体系を明確にすることをずっと考えている。権力ではなく節操を通そうとするから孤立してしまうんだ」

法哲学者の井上達夫さん

 井上の言葉は政治家としての小沢の特性を見事に言い当てていた。壇上、井上の隣に座っていた小沢は手元のおしぼりを引き寄せて目に当てた。緊張した議論の果てに理解者を得た喜びが心の琴線に触れたのかどうかはわからない。

「ぼくが唯一評価する政治家だね」

 この緊急対談の発端には私も関与している。ちょうど2か月前の8月27日、東大本郷キャンパスで改憲と国民投票をめぐるジャーナリスト向けのシンポジウムが開かれた。パネリストは井上のほか今井一や伊勢崎賢治、伊藤真、楊井人文の5人。シンポジウムが終わり、パネリストを中心に二次会に席を移した。イタリア料理店だったと思うが、私は井上の前に席を取った。井上の憲法9条論などに強い関心があったからだ。

 酒と会話が回り始め、私はふと思いついて「小沢さんについてどう思いますか」と聞いてみた。憲法をめぐる井上の議論に小沢の議論と通底するものを感じたからだ。

「ぼくが唯一評価する政治家だね」

 返ってきた井上の一言で私は多くのことを理解した。

 井上自身、国の安全保障政策は国民自身が判断するという意味合いで9条を削除し、安全保障のための戦力を保有するかどうかは法律で定めるという究極の平和主義改憲論を標榜していた。「究極」なだけに平和主義グループから誤解も受けやすかった。

 小沢の方は国際貢献のための自衛隊を考え、国民が判断主体となる方法を模索し続けていた。だが、こちらも議論は「戦力」に関わるだけに誤解を招きやすい。

 平和主義と安全保障、国際貢献の問題をごまかさずに考え、民主主義憲法の下で国民がどう決定を下していくか。法学アカデミズムの中で孤独の思索と行動を続ける井上が、政界の中で長い間同じ孤高の戦いを続けてきた小沢を極めて高く評価していた。ワインを口に運ぶことを止めて私は井上に聞いてみた。では、対談する気持ちはありますか?

「もちろん。小沢さんがいいと言うんだったらぼくはいつでも受けるよ」

 そこから始まった緊急対談だった。

小沢一郎が使っていた憲法の教科書

 対談の中で小沢は、「平和憲法を堅持しながらどうやって安全保障をまっとうしていくか」という難題に対する小沢自身の考え方を力説した。

「憲法9条は自衛権の行使に対する制限規定と解釈でき、残してもいいと思う。自衛権は正当防衛の考え方に通じ、個人にも団体にも国にもある。そこで正当防衛、自衛のための戦力は妨げないと憲法にきちんと書くことはいいのではないか。しかし私は、国連中心の国際の平和維持を通じて日本の平和を守るという考え方を取る。だから、9条4項か10条かで国連中心主義を掲げたいと思う」

 小沢は表だっては言わないが、小沢自身と憲法のつきあいは古い。

 慶應義塾大学経済学部を卒業後、司法試験を目指して日本大学大学院で法律を学んだ。国会議員をしていた父、小沢佐重喜が急死して法曹の道は断念したが、試しに受けてみた司法試験では憲法は「満点」の感触だった。

 小沢が院生時代に使っていた有斐閣の憲法の教科書を貸してもらい全ページ丁寧に読んでみたことがあるが、全ページとも定規で何度もサイドラインが引かれ直され、角張った小さな書き込みが此処かしこにあった。小沢の几帳面な性格がわかると同時に、何度も読み込んで咀嚼していた印象が残った。

小沢一郎との出会い

 私が初めて小沢に会った時のことを語ってみたい。まさに平和憲法と国連中心主義のテーマで会うことになったからだ。

 私は、1981年4月に朝日新聞社に入社した後どちらかと言えば政治部志望だったが、東京本社に「上がる」際どういうわけか経済部に拾われた。その後、経済部の他に総合週刊誌であるAERA編集部にも3回にわたって計10年以上在籍することになった。

 1990年8月、サダム・フセインが率いるイラクがクウェートに侵攻、湾岸危機が始まり、翌91年1月に危機は湾岸戦争へと発展した。この期間通算2か月、私はAERAから派遣され、危機と戦争の中東を文字通り足と車と飛行機で走り回った。イスラエルでは、毎晩フセインからミサイルの贈り物があった。

 のめり込む性格の私は、ガスマスクをつけてシェルターに逃げ込む以外の夜の時間は中東の和平と戦争の歴史専門書を読んで過ごした。テルアビブやエルサレム、ダマスカス、イスタンブールでの昼と夜はそのように過ごされた。

 時差約6時間から7時間、ボスポラス海峡からユーラシア大陸を超えて、はるか東に横たわる日本列島の首都、東京・永田町では平和憲法下でいかに国際貢献の実を上げるか議論が続いていた。

湾岸戦争への対応策が最大の焦点だった1991年通常国会。海部俊樹首相の施政方針演説に対する各党代表質問の前に海部首相(左)と話す小沢一郎自民党幹事長=1991年1月28日、国会

 議論の中心にいたのは、この時自民党幹事長だった小沢一郎。フセインがクウェートを侵略したことは明らかなのに、平和憲法下では多国籍軍に自衛隊は出せない。苦肉の策として多国籍軍に130億ドルもの国際貢献資金を出したが、戦後、日本への国際的な評価は低かった。「世界中の国々に感謝する」とプリントされたペルシア湾岸諸国のTシャツに日本の国旗だけがなかった。

 小沢は湾岸戦争の後、竹下派会長で「キングメーカー」と呼ばれていた金丸信から事実上の首相指名を受けていた。だが、小沢の頭には重責がひっかかっていた。今後の国際環境の中で、日本が平和憲法を護持しつつ国際間の平和にいかに貢献していくか、そのような議論を日本国内でいかに巻き起こし、国内的な世論の合意をいかに形成していくか。この宿題は小沢の頭を離れなかった。

 湾岸危機の間に国連平和協力法案が廃案になった後、小沢は国際貢献の議論を法案にまとめるべく小沢調査会を自民党内に作り、PKO協力法を成立させた。

 調査会答申を宮沢自民党総裁に提出した小沢はその時49歳。帰国してほぼ1年経っていた私は36歳だった。私はA4紙一枚に、調査会の考え方や小沢の政治哲学を問うべくインタビューの趣旨を書き込んで小沢の議員会館事務所にFAXした。

 この時、私の目には小沢は問題意識の塊のように見えた。すでに押しも押されもせぬ大物議員だったが、時代の難問にぶつかって呻吟し、その難問を解くためなら一週刊誌記者のインタビューも辞さないといった風情に私の目には映っていた。十全ビルヂング3階の小沢の事務所でインタビューは始まった。

「大勢はまだ現状維持。ぼくは少数派ですよ」

 笑顔で私を迎え、当初機嫌の良かった小沢の表情は質問の進行とともに次第に曇り始めた。正直に言ってこの時の問答はそれほどかみ合っているとは言えなかった。

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