星浩(ほし・ひろし) 政治ジャーナリスト
1955年福島県生まれ。79年、東京大学卒、朝日新聞入社。85年から政治部。首相官邸、外務省、自民党などを担当。ワシントン特派員、政治部デスク、オピニオン編集長などを経て特別編集委員。 2004-06年、東京大学大学院特任教授。16年に朝日新聞を退社、TBS系「NEWS23」キャスターを務める。主な著書に『自民党と戦後』『テレビ政治』『官房長官 側近の政治学』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
平成政治の興亡 私が見た権力者たち(12)
1942年、神奈川県横須賀市生まれの3世政治家。祖父は小泉又次郎、父は純也。いずれも衆院議員だ。慶応大学を卒業した後、父の死去を受けて1969年の総選挙に立候補するが、落選。この選挙では森喜朗、小沢一郎、羽田孜、梶山静六各氏らが初当選している。仮に小泉氏が当選していれば、森氏らの間で埋もれていたかもしれない。
落選した小泉氏は福田赳夫氏の書生として、「永田町」の政治を見つめた。当時は、田中角栄氏と福田氏が佐藤栄作首相の後継を争う「角福戦争」のまっただ中だった。結果は政治資金にものを言わせた田中氏の勝利。大蔵官僚出身のエリートだった福田氏は苦杯を飲んだ。
小泉氏は72年に初当選。政界では「田中支配」が続いていた。76年に福田政権が誕生するが、2年後の総裁選では田中派の全面支援を受けた大平正芳氏が現職の福田氏を破り、「田中支配」が復活した。数にものを言わせる田中派に敗れた経験から、小泉氏の「田中政治打破」の思いは強まっていった。
小泉氏の郵政民営化にかける情念も、若手のころの経験に基づいている。中選挙区制だった頃の衆院神奈川2区では、小泉氏のほか、自民党の田川誠一氏、社会党の岩垂寿喜男氏らが争っていた。郵便局の団体は田川氏を、郵政関係の労組は岩垂氏を、それぞれ支援していた。小泉氏にとって郵政関係者は縁が薄く、逆に銀行関係者からは「郵便局は税金面などで優遇されている」という苦情が寄せられていた。
小泉氏は、大蔵省出身の福田氏の推薦もあって大蔵省関係者との交流を深めた。大蔵政務次官、衆院大蔵委員長を歴任した。当時、自民党内では金融行政をめぐって、「銀行・大蔵省対郵便局・郵政省」という利害対立が続いていた。小泉氏は大蔵省寄りで、ここでも郵政族議員の多い田中派と対立した。小泉氏の持論である「郵政民営化」はその延長線上にあった。
小泉政治は4月26日の組閣から始まった。まず、総裁選で小泉応援団となった田中真紀子氏を外相に起用した。組閣の直前、田中真紀子氏を訪ねた自民党議員から聞いたエピソードを覚えている。
「真紀子さんが隣室で電話している声が聞こえた。『あんた、だれのおかげで総理大臣になれたと思っているの。考え直しなさい!』と叫んでいた。小泉氏から軽いポストを提示され、激怒し、巻き返したのだろう」
「田中外相」誕生の裏には、こんな暗闘もあったようだ。小泉首相はさらに、森山真弓氏を法相、保守党の扇千景氏を国土交通相、文部官僚の遠山敦子氏を文部科学相に抜擢。川口順子氏は環境相に再任した。女性閣僚は歴代最多の5人にのぼった。
内閣の要となる官房長官は福田康夫氏が続投。重要ポストの財務相には、小泉氏にとっては派閥の先輩に当たる塩川正十郎氏を充てた。気さくな人柄の塩川氏は「塩爺(しおじい)」と呼ばれ、国民的な人気を得る。
話題に事欠かない組閣人事のなかで、とりわけ注目されたのが、経済政策の核となる経済財政相に竹中平蔵・慶大教授を起用したことだ。竹中氏は総裁選のさなかにも、小泉氏に構造改革を打ち出すよう進言。小泉氏は持論の郵政民営化を説き、二人は意気投合していた。一方、総裁選で敗れた橋本龍太郎元首相が率いる最大派閥、橋本派からの入閣は総務相に片山虎之助氏、国家公安委員長に村井仁氏の2人だけ。小泉氏に押さえ込まれた。