元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界① 細川護熙氏の“告白”
2019年03月17日
連載・女性政治家が見た! 聞いた! おもしろすぎる日本の政治
「平成」という時代が間もなく終わる。その30年あまりの年月のほとんどの期間、私は政治に関わって生きてきた。
平成政治をあらためて見渡してみて感じるのは、日本の政治や政界は明らかに「男たちの園」という現実である。たとえば現在、国会議員に占める女性の比率は13.7%。世界の先進国と比較して、あまりにも低い。
もちろん、変化もあった。
ただ、政治の内実――誰が決めているのか、どういう政策が指向されるのか等々――を見るとき、男性優位は今なお堅固だ。平成5(1993)年、「女性のための政治スクール」を開講し、女性政治家の輩出と、女性の声が政治に反映する環境を目指してきた身にすれば、内心忸怩(じくじ)たる思いは禁じ得ない。
とはいえ、私は悲観してはいない。先述したように、徐々にではあるが、女性の政治進出は着実に進んでいるし(地方議会では、女性が半数を占めるところもある)、さまざまな分野で多様性が増すであろうポスト平成の日本において、男性政治家だけでは対応できなくなるのは明らかだからだ。裏を返せば、女性政治家がふつうになる時代にならないと、日本の未来はない。
そのために何をしなければならないか? 自ら政治にかかわって生きてきた平成の時代を振り返り、そこから進むべき道を考えてみたいと思う。「行く末」を考えるには、「来し方」を知らないといけないからだ。
まずは男社会の政界の現実を象徴するエピソードからはじめよう。
とはいえ、望まない性行為は暴力であると考え、それを告発しにくい社会のあり方を変えていきたいと願い、運動していた私にとって、強姦罪改正は長年の念願でもあり、感慨深いものがあった。
強姦罪をめぐっては、今も鮮明に覚えている光景がある。
20年以上も前、参院法務委員会で強姦罪を改正すべきだという趣旨の質問をしたときのことだ。強姦の判決がおりなかった判決文に書かれていた「着衣が破れることは行為の中でままあることであって……」という部分を読み上げた私は、続けてこう言った。
「私、寡聞にしてこの国の裁判官のご家庭内のことなど存じ上げませんが、着衣の破れるような行為をご夫婦でなさっておられるのでしょうか」
判決文のこの箇所は、「着衣が破れたくらいでは強姦とはいえない」という判決の「キモ」の部分だったので、あえて言及したのだ。
生命を危険にさらすほどの抵抗をしなければ、和姦とみなされてしまう。着衣が破れるほどの抵抗をしても、そんなことは普通の性行為ではよくあることだと判例はいう。いったい女性はどうすればいいのか。殺されるまで抵抗するべきだというのだろうか。
私は、加害者ではなく被害者が責められること、暴行・脅迫要件がなければ強姦と認められないこと、強盗罪より強姦罪が軽いことが許せなかった。そんな強姦罪は改めるしかないと強く迫った。
すると、それまで目をつぶって座っていた自民党の「おじさん議員」たち(彼らの多くは法務大臣経験者だった)が目を開いた。そして、口々にヤジを飛ばしたのである。
「こんな判決文を出しているなんて信じられん」
「円さんの言うとおりだ。強姦の規定を変えろ」
「強姦罪は軽すぎるぞ」
こういう野次なら大歓迎。時には野次もいいな。そう思った。
おじさん議員の方々も、強姦罪に問題があることは理解しているのだ。だから気が付けば、反応する。ただ、残念ながら、なかなかそこに目が向かない。
実際、課題は山積していた。たとえば世界の児童ポルノの80%は日本で作られていて、野放しになっていた。また、売春する女性は罰せられるのに、買う側は罰せられないという不均衡を放置しておいていいのか。そこで私は、「売春」ではなく、「買春」と書くよう迫り、児童買春を禁止する法律もつくった。これだって、たやすく通ったわけではない。法律用語に「買春」なる言葉はないと、法務官僚や法制局は頑迷に抵抗した。
非嫡出子の場合、戸籍の続柄欄の記載に嫡出子と違い、「男」「女」としか記載されていなかった問題も取り上げた。「プライバシー権の侵害」ではないかと追及した結果、2004年に法務大臣が「区別記載をなくす」と表明し、戸籍法施行規則が改正された。それまで社会の常識といわれていたもの、法律だから守るのが当然で済まされていたものの一つひとつを、私は女性の視線で見直し、疑問を抱いた点については粘り強く変えていった。国会議員17年の、ささやかな自負と言っていい。
そもそも、私はどうして政治の世界に足を踏み入れることになったのか。“責任”はひとえに、平成のはじめに日本新党という政党を一人で立ち上げた細川護熙さん(後に首相になるのだが、それについては後述する)にある。
スペシャル・オリンピックスはパラリンピックほどの知名度はないが、知的発達障害のある人の自立や社会的参加を目的とするスポーツイベントである。細川さんの妻で、先述した「女性のための政治スクール」の名誉校長を務めていただいている細川佳代子さんの地道な活動の結果、日本で初めて行われた世界大会には、84の国・地域から1829人のアスリートが集まった。
佳代子さんがケネディ大統領の妹ユニス・ケネディ・シュライバーが始めたスペシャル・オリンピックスのことを知ったのは1991年夏だ。「ダウン症で難聴の10歳のとも子ちゃん スペシャル・オリンピックス世界大会で銀メダルを獲得」という新聞記事に興味を持ったのがきっかけだった。
とも子ちゃんの体操コーチである中村勝子さんの「このオリンピックスはベストを尽くし、ゴールまで頑張った選手はみんな表彰されるのです」という言葉に心を揺さぶられた佳代子さんは、周りの人々を巻き込み、資金援助をたのみ、知的障害を持つ子を世間の目に触れさせたくないと考えていた親たちを説得し、日本でスペシャル・オリンピックスの運動を広げたのである。
話を元に戻す。
エムウェーブまで向かう道すがら、細川護熙さんがふとつぶやいた一言、「円さん。日本新党の借金、やっと返し終えましたよ」に、私は胸を突かれた。
日本新党、新進党、フロムファイブ、民主党と、細川さんとは常に政治行動をともにしてきたが、お金の話を聞いたのは、それが最初で最後。日本新党を発足し運営するために借りていた現金を返済し終えたらしいが、なぜ、そんなことをいうのか訝(いぶか)しみながら、私は細川さんに初めて会ったときのことを思い出していた。
3年前の1989年1月、昭和天皇が崩御され、昭和から平成に元号が改まった。軌を一にするかのように同年11月9日にはベルリンの壁が崩壊、12月のマルタ会談で冷戦が終結した。2年後にソ連が崩壊。1990年1月には多国籍軍のイラク空爆開始により湾岸戦争勃発。4月のペルシャ湾への掃海派遣により、自衛隊が初めて海外に派遣された。
そんな雰囲気のなか、細川さんは日本新党の原型となる論文「自由社会連合結党宣言」を書き上げ、『文藝春秋』(19921年6月号)に掲載する。5月初め、雑誌が刊行されると、たちまち世間の耳目を集めた。
当時の日本は、冷戦も昭和も終わったのに、明治以降の追い付け追い越せ型の近代化のための巨大な中央集権とその官僚組織が厳然とそびえていた。しかし、その“賞味期限”は明らかに迫っている。「今こそ分権化と生活者主権の政治を取り戻すべきだ」という細川さんの主張は、政界のみならず多くの人びとにインパクトを与えた。政治の世界とまったく関わりがなかった私の心も揺さぶった。
一人の女性が一生の間に産む子どもの数を表す合計特殊出生率が、丙午(ひのえうま)の年よりも下がって「1.57」となったのが1989年。女性が働きながらでも安心して子どもを産み育てられる働き方、保育所施策・住宅政策、長時間労働の是正など、少子化を食い止めるための意見を、私はテレビや著作、講演などで訴え続けていた。だが、現実の壁は厚く、私は空しさを覚えていた。
細川さんの行動に「やっと、しかるべき人が、まともなことを世に問いかけてくれた!」と感じたのを覚えている。
その細川さんが、なんと一人で私の自宅を訪ねてこられた。参院選を目前に控えた1992年の6月5日であった。
仕事場も兼ねた自宅のソファーに腰をおろした細川さんは、くたびれた表情で語りはじめた。
「自民党に対抗して新党を作るのは快挙だと言ってくださるが、では一緒にというと皆さん引いてしまわれる。毎日毎日、会う人ごとに断られて、疲れ果てました」
『文藝春秋』の論文で細川さんはそう高らかに謳(うた)っていた。日本新党も立ち上げた。だが、世間はそう甘いものではないらしい。
そして、おそらく熱心に口説いてくれると思った私の思い込みも、甘かった。
それでも、著名な人たちに断られ続けた細川さん、少しガッカリして、でも私のもとにやってきた細川さんを、私は心の底から応援しようと決意した。
それまで私は、「ニコニコ離婚講座」や「離婚110番」といった、お金が出ていくばかりのボランティア活動を支えるために、せっせと原稿を書いていた。財産というほどのものはなかったが、それでも、何があっても食べていけるくらいのことはできる。そう開き直れる強さと体力はあったのだ。
「選挙の神様」と言われていた竹下登元総理は「細川も3人当選させたら生き残れるわな」と公言していた。激励か脅しか、真意は分からない。いずれにせよ、もう後には退けない。全国を駆け回り、街頭演説もこなした。手応えはあった。
選挙の最終日の7月25日(土)。池袋駅東口には2台の大きな選挙カーが並んだ。文字どおり最後の演説会には、女優の竹下景子さんら有名人も駆け付け、大変な熱気だった。高輪の党本部に戻ると、ホールはボランティアでいっぱい。みな、細川さんの挨拶を万感胸に迫る思いで聞いた。結果はどうあれ、これからの時代を細川さんとともにつくるのだという思いに感極まったのか、汗と涙で顔をぐちゃぐちゃにした若者も大勢いた。
たった一人でバイオリンを奏ではじめた細川さんに、一人また一人と音を合わせる人が集まり、いつの間にか大きなオーケストラができあがっていた。そのオーケストラの一員に、みながそれぞれなれた気がしていたのだ。
「細川さん、記念にサインをしてください」
一人がサインペンを手に背中を向けた。汗びっしょりのTシャツに細川さんがサインをすると、若者たちが我も我もと細川さんのもとにやってくる。あの日、何百人の背中に細川さんはサインをしただろうか。高揚した細川さんの横顔につたう汗が、私には涙に見えた。
参院選で日本新党は細川さん自身も含め4人の当選者を出した。竹下元総理が
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください