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田中均氏が語る「平成」という時代

ポピュリズムが台頭し、プロフェッショナリズムは色あせた。自己主張外交の行方は…

田中均 (株)日本総合研究所 国際戦略研究所 理事長/元外務審議官

ツーリトル・ツーレート

 冷戦の時代は、米ソ間の核戦力の均衡により戦争が抑止されていた訳で、日本の役割は専守防衛に徹し、経済的に西側の一角としての役割を果たすことだった。この中で日本の安全保障認識は「いざとなれば米軍が助けに来てくれる」といった甘えの体質であったことは否めない。

 冷戦が終わり、冷戦後に生じた二つの危機が日本に大きな衝撃を与えた。1991年の湾岸戦争と1994年の北朝鮮核危機だ。

 湾岸戦争では日本は米国より人的物的貢献を求められたが実現できず、130億ドルに上る財政的貢献を行ったものの、「Too little too late」と批判を受け、国際社会においても十分評価されることとはならなかった。

 さらに1994年に生じた第一次北朝鮮核危機は日本自身の安全に対する直接的脅威となった。北朝鮮は1990年以前から核開発を進め、1994年に至り国連安保理が制裁決議を論じた際、制裁の実施は宣戦布告であると宣言して緊張を高めた。

 日本においても危機管理計画の準備を行ったが、朝鮮半島有事の米軍支援、邦人救出、難民受け入れ、国内警備などあらゆる面において不十分な法制しかなかった。イデオロギー対立の中で安全保障に眼をそむけてきた結果、超法規的措置で日本を守るか、嵐が過ぎ去るのを待つ以外に選択肢はなかった。

 幸いにしてカーター元大統領の訪朝、その後の米朝交渉により米朝枠組み合意が成立し、日本は危機を免れる。

日本の安全保障政策は転換した

 そのような二つの危機が、その後の安全保障政策を変えるきっかけとなった。

 1995年、米国国防総省のジョセフ・ナイ次官補のイニシアティブの下で、日米の安全保障当局は冷戦後の日米安全保障体制を再確認する作業を始めた。冷戦後東アジアで生じた朝鮮半島危機やその後の台湾海峡危機に日米がどう向き合うかを念頭に、冷戦後の日米安保体制の意味合いを明確にし、国内啓発することが主眼であった。

拡大Alex_Po/shutterstock.com

 この作業が日米安保共同宣言や沖縄米軍基地の整理・統合・縮小、更には日米防衛協力ガイドラインの策定に繋がっていく。日本側にしてみれば、冷戦時と異なり日本の安全保障上の役割は拡大しなければならず、日本国憲法9条を前提としたうえで、どこまで何が出来るかを明らかにする作業だった。

 このような作業を通じ日米安保体制における日本の役割の中心は非戦闘地域における後方支援を行う事と概念し、周辺事態法(1999年)、有事法制(2003年)等の法制措置が取られて行った。さらにはインド洋における給油支援のための海上自衛隊艦船の派遣(2001年―2010年)やイラクへの人道復興支援のための陸上自衛隊の派遣(2003年―2009年)にもつながっていった。

 2015年にはさらに一歩進め、集団的自衛権の一部行使容認や国連平和維持活動への積極的参加を可能にする新安保法制が成立した。安倍内閣は国家安全保障会議並びにその事務局の創設や武器輸出三原則に代わる防衛装備移転三原則など日本の安全保障面での役割を強化する法制を整備していった。基本的には日本国憲法の下で日本自身が安全保障に向き合う体制が整備されたと言える。

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筆者

田中均

田中均(たなか・ひとし) (株)日本総合研究所 国際戦略研究所 理事長/元外務審議官

1969年京都大学法学部卒業後、外務省入省。オックスフォード大学修士課程修了。北米局審議官(96-98)、在サンフランシスコ日本国総領事(98-2000)、経済局長(00-01)、アジア大洋州局長(01-02)を経て、2002年より政務担当外務審議官を務め、2005年8月退官。同年9月より(公財)日本国際交流センターシニア・フェロー、2010年10月に(株)日本総合研究所 国際戦略研究所理事長に就任。2006年4月より2018年3月まで東大公共政策大学院客員教授。著書に『見えない戦争』(中公新書ラクレ、2019年11月10日刊行)、『日本外交の挑戦』(角川新書、2015年)、『プロフェショナルの交渉力』(講談社、2009年)、『外交の力』(日本経済新聞出版社、2009年)など。

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