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小沢一郎、金融国会の悔恨

(4)民主党が政局回避した98年、小沢一郎はひたすら自民党との決戦を唱えていた

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

日本記者クラブ主催の討論会で議論を交わす民主党の菅直人首相(手前)と小沢一郎前幹事長=2010年9月2日

小沢一郎と菅直人の因縁

 ヘーゲルを思い出したマルクスは有名な歴史書の冒頭で、史上の出来事は「二度現れる」と言っている。「一度は悲劇として、二度目は茶番として」とまで記しているが、たしかに因縁というものはありそうだ。現代日本政治を振り返る者は、「一度は岸信介として、二度目は安倍晋三として」と指折る向きもあるだろうし、直近で言えば「一度は2007年の参院選自民党惨敗として、二度目は2019年参院選として」と語る者も出るかもしれない。

 2007年参院選での自民党大敗が第一次政権時代の安倍晋三首相を退陣に追い込み、2009年の民主党政権の誕生につながった。

 しかし、この政権交代の11年前にも、実は野党勢力が政権に近づいた時があった。菅直人が党代表に就いていた旧民主党、そして小沢一郎が率いていた旧自由党などの野党勢力だった。政権を眼前にして一度は離れ、そしてもう一度協力して政権を獲得した菅直人と小沢一郎の間にも因縁といったものがあるのかもしれない。

 20世紀も終わりに近づいた1997年から98年にかけて、日本経済が未曾有の金融危機に直面していたこの時期、政権の座にあった自民党は旧態依然とした銀行界の「護送船団」方式に囚われてほとんど打つ手がなかった。金融システム維持のための新しい政策を構想したのは、民主党の枝野幸男や自民党の石原伸晃ら「政策新人類」と呼ばれた若手国会議員たちだった。

 銀行が次々に金融大流砂にのみ込まれていく危機の中で、1998年7月参院選が告示され、自民党は単独過半数割れに追い込まれた。橋本龍太郎首相は退陣し、代わって小渕恵三首相が就任したが、新金融法案を掲げた民主党や自由党など野党側の勢いが強く、小渕内閣に不信任案が出された場合、政権交代もありうるのではないか、と予測されていた。

 しかし、この時、民主党の菅直人と自由党の小沢一郎の考えはまるで違うところにあった。このあたりの経緯には私も少し絡んでおり、因縁話めいた目撃談を語っておこう。

仙谷由人からの電話

 大阪を中心とする関西の中小金融機関をなぎ倒した最初の金融激震が襲ってきた1995年後半、私は朝日新聞の大阪本社経済部でまさに金融取材チームのキャップの職にあり、木津信用組合と兵庫銀行の破綻に始まった破綻の嵐の真っ只中にいた。

 激震が大阪を離れるとほぼ同時に東京経済部に戻り、引き続いて日銀記者クラブのキャップとして日銀の独立性を高める日銀法改正の取材に当たった。しかし、その間も大手金融機関の存立の土台を掘り崩す金融流砂の流れは止まらなかった。

 1997年4月に3度目のAERA編集部に移った私は、危機的な金融界の実情を読者に伝える仕事に専心した。大手仕手筋に絡む都市銀行の不良融資や生命保険会社、証券会社の不祥事、ゼネコンやノンバンクの危機、そして長期信用銀行や都市銀行の危機という金融破綻の本丸へと取材の足とキーボードのタッチは近づいていった。

 私の不良債権報道の中で特に反響を呼んだのは当時の日本債券信用銀行と日本長期信用銀行に関する記事だった。

 大手銀行は、融資金の返ってこない不良債権をペーパーカンパニーに付け替えて隠匿する「飛ばし」という手法を多用していたが、私は日債銀のペーパーカンパニー群の貸借対照表を手に入れてひとつひとつカネの流れを跡づけ、日債銀がいかに不良債権を飛ばしているか暴露した。

 登記上のペーパーカンパニー群には可能な限り足繁く訪れてみた。古ぼけた無人ビルの閉ざされたドアに急造の名刺を会社数だけ張りつけた文字通りの「幽霊会社」を突き止めたこともあった。

 長銀については日本リースやエヌ・イーディー、日本ビルプロヂェクトなどの系列ノンバンクがいかに銀行本体の足を引っ張っているかを明るみに出した。

 これらの金融報道は一冊の本にまとめ、1998年11月に『ドキュメント金融破綻』というタイトルで岩波書店から出版したが、私に一本の電話がかかってきたのはそのような報道を続けている真っ只中の同年夏の頃だった。

「金融国会が始まる。あなたの記事はずっと読んでいるが、ぜひ力を貸してもらえないだろうか」

 低い声のトーンでこう話しかけてきたのは当時民主党幹事長代理を務めていた仙谷由人だった。仙谷は前年に幹事長代理に転じるまで党政策調査会長の職にあり、党内でも有数の政策通と言われていた。その仙谷がストレートに電話をかけてきて協力を乞うた。

仙谷由人氏

財金分離へのこだわり

 東京・永田町にある衆議院議員会館ビルはまだ改築前だった。地下の古い会議室のドアを開くと中高年の男性三人がまるで面接官のように並んで座り、私を待っていた。

 真正面に座っていたのが仙谷。正面に座った私から見て左側には当時民主党議員の横路孝弘がいた。若いころは「社会党のプリンス」と呼ばれ、衆院議員から北海道知事に転じ3期連続当選、その後1996年の総選挙で民主党から立候補、国政復帰を果たしていた。

 そして仙谷の右側にはやはり民主党議員の熊谷弘がいた。旧通商産業省の官僚出身で、自民党議員になってからは小沢一郎率いる改革フォーラム21に参加、小沢たちとともに自民党を離党した。その後細川護煕内閣の通産大臣、羽田孜内閣の内閣官房長官を務め、小沢から離れて後は小党を渡り歩いて、この時民主党にいた。

 通称「金融国会」と呼ばれる1998年7月からの第143回国会は、自民党が民主党などの金融再生法案を丸呑みした臨時国会だった。

 国会召集の前月、当時発刊されていた月刊『現代』に「長銀破綻」の記事が掲載され、長銀を発端に大手銀行の経営危機が一気に表面化した。自民党・財務省は、瀕死の長銀を住友信託銀行と合併させて救済しようとしたが、金融市場はもはや護送船団方式の古い救済策には欺されなかった。合併話は立ち消えとなり、本格的な金融再生法案を求めて第143回国会が始まった。

 民主党側からすれば直前の参議院選挙で自民党を単独過半数割れに追い込んでおり、金融国会は政権交代も視野に入れた絶好の機会だった。仙谷が私に電話をかけてきたのは、自民党を追い込むための協力要請が目的だった。

 単刀直入に要請の趣旨を話す仙谷に私は腹を決めた。もとより取材や報道の目的は日本経済や社会を危機から救い、将来に向かって少しでも向上させること以外にはない。その目的に資するためであれば取材倫理に反しない限り協力は惜しまない。

 しかし、この際ただひとつだけ条件があった。現在の財務省の前身である旧大蔵省はこの時まで財政部局と金融部局を両方抱え、無理な金融政策を金融部局に押しつけ、この弊害がバブル経済を生んだと盛んに指摘されていた。この弊害をなくすために旧大蔵省から金融部局を外すことが活発に議論され、民主党もその方針だった。

 私は報道倫理の許す限り民主党を全力で応援しよう。しかし、その前提としてただ一つ約束してほしいのは、この大蔵省分割の方針を最後まで貫くことだ。やり抜くことを約束しますか?

「財政金融分割の方針は問題ないだろう」

 左右を見渡して二言三言相談した仙谷は、分割方針を貫くことを約束した。結局、1998年6月には旧大蔵省の外に金融監督庁が設置され、さらに2000年7月に金融庁に改組されて財政機能と金融機能の分離はとりあえず貫徹された。

菅直人「大蔵省の問題は10本のうちの1本にすぎない」

 私はこの一連の協力作業を通じて仙谷と特に親しくなり、特別に代表の菅直人に3回ほど長い時間を取ってもらった。会見の目的はただひとつ、手を伸ばせば届く政権の準備のためにその構想を十分に練っておくべきだと進言することだった。

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