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じっくり煮込んだゴルメザブジ 揺れるイランから

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

野菜や豆、肉がとろとろになるまで煮込まれたゴルメサブジ(写真はいずれも筆者撮影)

 雨上がりの瑞々しい香りが街を覆う午後、都心とは思えないほど落ち着いた雰囲気の住宅街の一角に、ホセさん、Sさんご夫婦を訪ねた。「いらっしゃい」と朗らかに出迎えてくれたホセさんは、その柔和な笑顔に、伸ばした髭がよく似合う人だった。2012年にイランから日本に逃れ、7年という月日が経とうとしている。

 ご夫妻が暮らすアパートは、扉をくぐるとすぐにダイニングになっていた。キッチンに立つのはホセさんだ。イランで暮らしていた頃、国外に仕事で長期滞在する時には自炊することも珍しくなかったという。「日ごろから料理や家事を進んでこなしてくれるんです」と妻のSさん。慣れた手つきで味を調え、日本では珍しい食材を細やかに使い分ける。

キッチンに立つホセさん。下ごしらえから丁寧にこなしていく

イランのビーフシチュー

 この日の食卓に並んだのはイランのビーフシチューとも形容される「ゴルメサブジ」だ。「サブジ」は野菜を意味する言葉だ。ハーブミックス、赤インゲン豆などと一緒にじっくりと肉を煮込み、そこに加えた乾燥レモンなどの酸味が味のアクセントとなる。サフランで色づけたライスは、香りもさることながら、見た目の美しさも魅力的だ。一口食べると、肉はとろけるほどに柔らかく、ソースは独特のコクがある。

ハーブミックスは水で戻すと生き生きとした鮮やかな緑に

細やかな味に仕上げるには欠かせない乾燥レモン

 ハーブミックス、乾燥レモンやサフランは、日本ではどこででも手に入るものではない。キッチンの片隅には、イランにいる家族から送ってもらったり、都内のイラン食材店で購入したりした食材が並んでいる。

時間をかけてじっくりと煮込んだ野菜は、ソースに溶け込んでしまうほど柔らかい

ラフランで色づけしたライスや、こんがり焼いたジャガイモの色合いも食欲をそそる

家ではいつも母の手料理

 「家ではいつも母の手料理でした。父も何とか手伝おうとするのですが、母の料理の腕があまりにもいいので、ほとんど手伝えることがなかったんですよ」。家ではいつもそんな母の意見が一番強かったんです、と懐かしそうに笑う。日本でこうして食事の支度をしている間も、脳裏には故郷のキッチンと、母が料理をする背中が浮かぶのだという。

手際よく料理するホセさんを、Sさんもアシスト。呼吸もぴったりだ

 ホセさんの実家は絨毯(じゅうたん)を売る仕事をしていた。ホセさん自身も父親と一緒に、中東やヨーロッパ、アジアの国々を飛び回っていたという。母語のペルシャ語にとどまらず、英語やフランス語など7カ国語を駆使しながら商談をまとめた。扱っていた絨毯は一枚一枚が非常に高価であったことから、客層は常に富裕層だった。ホセさん自身もその仕事に誇りを持っていた。

イスラム革命で大きく変わった日常

 イランでは1978年にイスラム革命が起こり、翌年に国王が国外に脱出、イスラム教に基づいた共和国が樹立された。「革命前の社会とは大きく、人々の日常が変わりました。父たちはそれまで、外のお店で堂々とお酒を買ったり飲んだりしていたのだといいます。革命後は、それがなぜ許されないのかという議論さえできなくなったんです」。妹たちが髪の毛を隠し、熱い中でもヒジャブを被って通学しなければならない姿にも疑問が湧いた。

 そんな政治や宗教の在り方に疑問を呈するうちに、警察から睨まれるようになっていった。度々連行されては拷問を受けることもあり、命の危機を感じるようになった。「パスポートは警察に取り上げられてしまっていたので、やむなくまずは国境を越えてトルコに逃れることにしました」。当時は大学で工学を学んでいたものの、卒業は叶わなかった。

 ホセさんの逃れた道は、多くの難民となってしまった人々が通ってきた道のりに重なる。トルコから海を渡ってギリシャへ、ギリシャからヨーロッパ各国を転々とした。ところがこれまでビジネスで訪れた時の自身に向けられる目線と、難民として人々から受ける扱いは全く異なっていた。高額の取引をしていた時には気が付かなかった、中東、アジア圏の人々に対する冷たい視線を感じるようになったという。「だからこそできれば、同じアジア圏で行ける国を探そうと思ったのです」。減る一方の貯金をさらに削り、オーストリアから日本へ飛んだ。成田空港に降り立ち、その場で難民申請を試みた。

施設に収容され、インタビューづくしの生活

 空港で難民申請の意思を示した場合、特別な上陸手続きに移行することになるが、この手続きで上陸許可が出ることは稀なため、多くの場合、そのまま収容されてしまうことになる。収容は長期化する傾向にあり、短期間で在留許可を得て解放されることは珍しいという。 ホセさん自身は成田空港近隣の施設に収容され、ほぼ一日中インタビューを受ける日々を過ごすことになった。「休憩もろくに取れないまま、厳しく質問を投げかけられ続けました。成田ほどではありませんでしたが、牛久の収容施設に移されてからもインタビューづくしの生活はほぼ変わりませんでした」。

 ところがその後、ホセさんには異例の措置が取られる。申請からわずか1カ月ほどで、人道配慮による在留特別許可を得られることになったのだ。彼は平均2年半かかる難民申請手続きがなぜそこまでの速さで進められたのか、理由は定かではない。

あまりに環境が整っていない、日本の難民サポート態勢

 ただ、その手続きもその後も生活も順調に進められたわけではない。在留特別許可の手続きのため、牛久の施設を後にしたホセさんは、最初に申請をした成田空港に移送された。到着したのは午後4時ごろだった。ところが英語の手続きが出来る人もいなければ、受け取った書類の説明もろくになされなかった。「もう業務も終わる時間なので」とせかされた上、「行ってらっしゃい」「Welcome to Japan」とだけ告げられたという。「“ウェルカム”ってどういう意味だ、とターミナルに座り込み、ただ茫然としました。」これからどこに行くべきなのか、どこに連絡すればいいのかも分からず、未知の世界に放り出されてしまったようだった。

 「それまで日本には、ハイレベルで機械も進歩しているというイメージを抱いてきました。これまで自分が訪れたヨーロッパ各地のUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のオフィスや入管では、通訳機器や調べ物をするためのタブレットなどを当たり前のように置いていたんです」。なぜここまで環境が整っていないのか、その時のショックはあまりに大きかったという。

 とにかくどこか泊まれる場所を探さなければならない。幸い、牛久で同時期に収容されていた人が、千葉県内に暮らすイラン出身の友人の連絡先を教えてくれていた。同国出身とはいえ会ったこともない人を頼り、その日をしのいだ。難民支援協会(JAR)のことは、近隣の役所を訪れた際に初めて教えてもらったのだという。こうしたホセさんの歩みを振り返るほどに、そもそも在留特別許可の手続きの時点で、どのようなサポートを受けられるのか、丁寧な説明がなされるべきなのではないかという思いを強くする。

ホセさんの自宅にある小さな観葉植物は、日本に来た直後に購入して以来ずっと一緒に暮らしてきたものだ。一人暮らしの寂しさを癒やしてくれた大切な相棒だったという。今でも元気に葉を伸ばしている

 JARのサポートを受けながら、慣れない日本語を学び、茨城県内の工具商社の営業担当としての職を得る。言葉の壁にぶつかりながらも、国外企業との商談を担った。職を得るまで、来日してから3年という月日が経っていたが、その間にも拷問の爪痕が残る膝の手術をするなど困難は尽きなかった。「ヨーロッパでは難民認定を得られるような人々が、日本では不安定な生活を送らなければならないのはなぜなのか」。実情を肌身で体感するほどに、疑問が湧いてきた。

Sさんとの出会い、新しい命も誕生

 そんなホセさんが妻のSさんと出会ったのは、ひょんなことがきっかけだった。たまたま共通の知人がおり、よく通っていた飲み屋で開かれた誕生日会で隣に座ったのだという。「すぐに意気投合、という感じでしたね。出会って3日後にはもう付き合っていた」とはにかむSさん。ただ家族を説得するのは時間がかかったという。「父はなかなか彼に会ってくれなくて、ホセがひらがなで手紙を書いたりしていましたが、2年かかりました」。ある時、父親が仕事から帰る時間を見計らい、事前に連絡をせずに2人で実家を訪れた。ホセさん自身も顔と顔を合わせて、今しっかりと仕事をして生活していけることを伝えたかったのだという。「でもいい人だって分かってくれてからは早かったですね。1カ月後には家族で食事をして、さらに1カ月後には婚姻届に父にもサインしてもらいました」。

 還暦祝いを機に一緒に楽しめるようにと、今ではゴルフを共にしているという。

 結婚はイランにいる両親も喜んだ。通話アプリを使い、時間を問わず日々連絡を取り合っている。平穏な日常が続くことを願いたいが、イランから連日届くニュースは、不穏なものが尽きない。アメリカなど国際社会の中での対立だけではなく、各地でデモが起こり、国内も歪(ひず)みが噴出している。ホセさんがSさんを故郷の両親に紹介できる日はいつになるだろうか。

 ホセさんは今、鉄製品を作る会社に移り仕事を続けている。そして今年2月、2人の間に新しい命が生まれた。私たちが一緒に頂いたあの「ゴルメサブジ」を、息子さんもいつか顔をほころばせながら食べる日が来るのだろう。日本とイランの故郷の味で育ちながら、お子さんにとっての「食卓」はどんな存在になっていくのだろう。3人の過ごす日々にまた、そっと触れさせてもらいたいと思う。きっとそこに、人々が共に生きていくための鍵があるはずだから。

お二人の、そしてお子さんとのこれからが、穏やかな日々であることを願って――

(この連載は毎月第4土曜日に掲載します)