北朝鮮で人道支援25年。「KOREAこどもキャンペーン」の歩みをたどる(1)
2019年03月21日
トランプ米大統領と金正恩・朝鮮労働党委員長による米朝首脳会談が2019年2月27、28の両日、ベトナムの首都ハノイで再開された。
今回の首脳会談は、昨年6月にシンガポールで行われた史上初の米朝首脳会談ほどの驚きとインパクトはないものの、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の非核化が進められるか、いまも続く朝鮮戦争の「休戦」状態から平和協定合意を通した恒久的な和平に変えられるかが、世界の関心を集めた。
北朝鮮は、経済制裁の解除を求めていた。事前準備会合では、合意事項、調印式まで用意されていたようであるが、結果として、正式に合意されたものはまったくないまま、会談は終わった。
2月27日には、トランプ大統領の元弁護士マイケル・コーエン被告の下院での公聴会が全米で中継され、ロシア疑惑不正以外の嘘も明らかにされたことが注目を浴びた。
これは偶然ではない。下院議長のペロシ氏(民主党)が意図的にぶつけた日程であった。
再選を目指すトランプ氏には、北朝鮮との交渉において、派手な「成果」を求めて安易な妥協をするのではないかという不安がつきまとっていた。だが、公聴会で世論のなかにトランプ氏へ厳しい見方が形成されたことは、結果としてトランプに安易な妥協をさせない方向に働いた。北朝鮮、イラン、イラク(サダム・フセイン時代の)にきわめて批判的なボルトン・国家安全保障問題担当大統領補佐官が会議に参加していたことも、この「ゼロ」合意に影響を与えたに違いない。
今回の米朝会談の合意ゼロは非常に残念であるが、かつてインドシナや他地域での和平協定も締結までに何年もかかり、何回もの会議を必要とした。ともあれ北朝鮮をめぐり、当面の戦争の危険のない状態は継続している。米朝以外のアクターも含む、今後の様々な会合に期待したい。
本稿では、1990年代後半に北朝鮮での人道支援に取り組んだ「KOREAこどもキャンペーン(前身は、NORTH KOREA水害支援キャンペーン)」が、国交もなく、歴史的にも「マイナス」からの出発であったにもかかわらず、どのように関係を構築し、和平への動きに参画しようとしてきたか、その四半世紀にわたる歩みをたどってみたい。
前編の3回では、インドシナ半島の紛争解決と国際社会への復帰の過程と、朝鮮半島の状況変化をオーバーラップさせつつ、ベトナムよりはるかに活動が難しかった90年代の北朝鮮を振り返る。
そして後編では、2000年以降の南北融和と、日本の厳しい制裁・逆風、北朝鮮の核実験といったジェットコースター的な情勢変化に翻弄されながらも、地道に積み上げてきた「人」対「人」のささやかなエピソードを紹介しながら、東アジア和平への可能性を提示してみたい。
1979年、カンボジアのポル・ポト体制が崩壊した。長年の“恐怖政治”のもと、国土もそこに住む人たちも疲弊していたが、当時のカンボジアはあらゆる開発援助を拒否され、国連に議席もない。インドシナ難民救援から紛争解決に関わった日本国際ボランティアセンター(JVC)が、活動を始めようとしたとき、同国が置かれた環境はそんな厳しいものだった。
人道的、政治的に中立的な立場を堅持しつつ、JVCがカンボジア(当時はヘン・サムリン、フン・セン政権)に入ったのは1982年。私自身は、1983年3月、井戸掘り給水活動の支援で現地に入った。現在でいえば、まさに日本や米国と国交のない北朝鮮に常駐する感覚であった。
1990年代中盤以降の、「快適で楽しい」カンボジア、「雑貨のかわいい」ベトナムといったイメージとは180度異なる、日本と日本人が「敵対国・敵国民」として厳しく扱われた時代である。80年代にカンボジアで活動するには、事前に必ずベトナム(ハノイ、ホーチミン)に入り、カンボジアへの入国査証を受け取らねばならなかった。
政策の効果が実際に全国に広がるには、5~10年近い年月がかかった。私がベトナムに出入りするようになったのは、そんな頃であった。ソ連一辺倒のレ・ズアンが亡くなった日のハノイの蒸し暑さ、悲しむ人が少なかった街の様子を、いまも鮮明に記憶している。
いま思えば、親ソ連の社会主義時代、ベトナムの言い方でいえば、「ドイモイ(刷新)」政策以前の時代をベトナムやカンボジアで体験できたことは、NGO活動者としての私にとって大きな糧となった。
米越和平協定で明記された「南北の二体制維持」が覆され、統一がなされたことに怒ったアメリカは当初、「ベトナム叩き」に終始していた。しかし、冷戦の終焉(しゅうえん)が見えてきた1980年代後半、特に「第2回国連インドシナ難民国際会議」(1989年、ジュネーブ)で示されたように、国際社会が「難民支援から難民流出国の復興」に力点を置くようになると、アメリカもベトナムとの関係修復を模索するようになる。
ベトナム側は、ドイモイ政策に基づき、まず①について協力し、②に関しては、1989年9月のカンボジアからのベトナム軍撤退で応え、③の再教育キャンプの廃止も段階的に実現していった。
この三つの条件をみて想起するのは、1990年代に進行した米朝会議である。
後述するが、クリントン政権下で成立した「米朝枠組み合意」は、①行方不明米兵(MIA)の調査。遺骨の確認と返還②軍事的には、核開発、ミサイル開発の停止・凍結――を関係正常化の前提条件としてきた。北朝鮮は、①にはすぐ応じ、②に関しては、現在なお協議中である。トランプ政権は、当初、核・ミサイル開発の即時停止を主張してきたが、現在は「段階的に、ゆっくりでも良い」と発言を変化させている。
もっと言えば、アメリカの現政権は、ベトナムへの対応の際には取り上げた③再教育(矯正)キャンプの廃止、いわゆる強制収容所等の問題に象徴される人権問題について、北朝鮮に対しては強く要求していない。韓国の現文在寅政権もまた、人権問題については、現段階で強く求めていく立場はとっていない。次の段階での目標にしているのだろうか。
1980年代から90年代前半にかけて、孤立状態にあったベトナムおよびカンボジア、ラオスが、自らの政策変更と、国際社会側の変化によって、国際社会と関係を正常化していった過程を、現地に暮らす数少ない日本人として、私は目の当たりにした。社会主義政権下で暮らすなかで、北朝鮮や中国に関わる本もたくさん読んだ。
同じような流れが、北朝鮮/朝鮮半島でも可能なのか? 日本を含めた周辺国関係国はどのように対応すべきなのか?――
いま思えば、そんなことを繰り返し考える機会でもあった。それがその後の北朝鮮への支援、交流事業へとつながっていくのである。(続く)
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