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北朝鮮支援の原点となったインドシナ3国での体験

北朝鮮で人道支援25年。「KOREAこどもキャンペーン」の歩みをたどる(1)

熊岡路矢 日本国際ボランティアセンター顧問 KOREAこどもキャンペーン元代表

開催地のハノイに抱いた感慨

米朝会談が開かれたベトナム・ハノイ。オペラハウス前には米朝首脳を描いた絵が置かれた=2019年2月28日拡大米朝会談が開かれたベトナム・ハノイ。オペラハウス前には米朝首脳を描いた絵が置かれた=2019年2月28日
 このたび米朝会談がハノイで開かれたことに、私は深い感慨を覚えた。1980年代前半、東西冷戦のピークともいえる時代に、NGOメンバーとしてインドシナ三国(ベトナム、カンボジア、ラオス)での人道緊急救援活動に携わり、停戦、和平につながる政策提言をおこなってきた際、冷戦型紛争の最前線であったハノイを私は幾度も訪れた。その地が現代の紛争解決の場を提供したことに、時の流れと巡る因果を実感したからだ。

 本稿では、1990年代後半に北朝鮮での人道支援に取り組んだ「KOREAこどもキャンペーン(前身は、NORTH KOREA水害支援キャンペーン)」が、国交もなく、歴史的にも「マイナス」からの出発であったにもかかわらず、どのように関係を構築し、和平への動きに参画しようとしてきたか、その四半世紀にわたる歩みをたどってみたい。

 前編の3回では、インドシナ半島の紛争解決と国際社会への復帰の過程と、朝鮮半島の状況変化をオーバーラップさせつつ、ベトナムよりはるかに活動が難しかった90年代の北朝鮮を振り返る。

 そして後編では、2000年以降の南北融和と、日本の厳しい制裁・逆風、北朝鮮の核実験といったジェットコースター的な情勢変化に翻弄されながらも、地道に積み上げてきた「人」対「人」のささやかなエピソードを紹介しながら、東アジア和平への可能性を提示してみたい。

中立の立場を堅持して活動を開始

 1979年、カンボジアのポル・ポト体制が崩壊した。長年の“恐怖政治”のもと、国土もそこに住む人たちも疲弊していたが、当時のカンボジアはあらゆる開発援助を拒否され、国連に議席もない。インドシナ難民救援から紛争解決に関わった日本国際ボランティアセンター(JVC)が、活動を始めようとしたとき、同国が置かれた環境はそんな厳しいものだった。

 人道的、政治的に中立的な立場を堅持しつつ、JVCがカンボジア(当時はヘン・サムリン、フン・セン政権)に入ったのは1982年。私自身は、1983年3月、井戸掘り給水活動の支援で現地に入った。現在でいえば、まさに日本や米国と国交のない北朝鮮に常駐する感覚であった。

 1990年代中盤以降の、「快適で楽しい」カンボジア、「雑貨のかわいい」ベトナムといったイメージとは180度異なる、日本と日本人が「敵対国・敵国民」として厳しく扱われた時代である。80年代にカンボジアで活動するには、事前に必ずベトナム(ハノイ、ホーチミン)に入り、カンボジアへの入国査証を受け取らねばならなかった。


筆者

熊岡路矢

熊岡路矢(くまおか・みちや) 日本国際ボランティアセンター顧問 KOREAこどもキャンペーン元代表

1947年生まれ。1980年、インドシナ(カンボジア、ラオス、ベトナム)難民救援活動を始め、日本国際ボランティアセンター(JVC)の創設に参加。JVCでは、カンボジア代表、ベトナム代表、代表理事などをつとめ、2007年から現職。北朝鮮にはコメ支援以後、10回ほど訪問。東南アジアでの難民・緊急支援・開発活動、南アフリカ、エチオピア、パレスチナなどでの短期の人道支援にも従事する。東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」客員教授、UNHCR駐日事務所アドバイザー、朝日新聞紙面審議委員などを歴任。『カンボジア最前線』(1993 岩波新書)、『戦争の現場で考えた空爆、占領、難民―カンボジア、ベトナムからイラクまで』(2014 彩流社)など著書多数。