元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界② 石原慎太郎氏の切実な挨拶
2019年03月24日
連載・女性政治家が見た! 聞いた! おもしろすぎる日本の政治
2016年の夏。東京都知事選の真っ最中、自民党候補の支援集会での演説で、対立候補だった小池百合子(現都知事)さんのことを「厚化粧の女」と言ったのは、石原慎太郎元東京都知事だ。
「生まれつき顔にアザがあるから、ちょっと化粧が濃くなるのよ」と小池さんはサラッとかわしていたが、石原さんという人は「三国人」発言や、「ババアは世の中に不要だ」という女性蔑視の発言など、平気で差別的な言辞を弄する。
この知事選では、石原さんの息子である石原伸晃さんとも、小池さんはバトルを繰り広げている。自民党都連会長だった伸晃さんは、小池さんが都知事選に出たいと話したとき、小池さんに「公認」を与えなかった。
そんな因縁もあり、小池さんが2017年秋に希望の党を立ち上げた際、仮に本人が出馬をするなら、伸晃さんの地盤の東京8区(杉並区)から出る気だったという話を聞いたことがある。石原父子への対抗心、伸晃さんを倒す気持ちがありありだった。
そんな石原慎太郎さんと私が初めて出会ったのは、日本新党が初挑戦した1993年衆院選のまっただ中、7月9日のことだった。日本新党代表の細川護熙さんの名代で、霊友会の集会に行き、挨拶をしたときのことである。私の直前に、自民党を代表して石原慎太郎さんが挨拶に立った。
その挨拶で、「へえっ、石原さんはこういうことを言う人間なんだ」と笑ってしまうような言葉が飛び出したのである。
「皆さんね、熊本県知事だった細川クンが作った党があってね、この細川クンっていうのは私が参院の全国区で取った票をやったおかげで参議院議員になれた男なんだけど、彼のつくった党には離婚を勧めるような変な女もいるんだが、この党に勢いがあってさ、杉並の俺の息子の伸晃が危ないんですよ。山田宏って男に負けそうなんだ。伸晃を助けてくれ。みなさん、ぜひ伸晃をお願いしますよ」
1979年から私は「ニコニコ離婚講座」を主宰していて、月に1回、東京原宿で開く講座には全国からすでに1万人以上の女性が参加していた。離婚の暗いイメージを吹き飛ばすためにつけた「ニコニコ」というネーミングが、保守層からは離婚を勧めると揶揄されていたのだ。
各党の代表者は壇上の椅子に並んで挨拶の順番を待つものだが、その時は一人一人壇上に呼ばれるまで控室で待つよう言われ、私はそこで石原さんの演説を聞いていた。私が呼ばれたとき、彼はすでに帰っていて顔を合わせなかった。そういうかたちにしてくれと石原さんが頼んだらしかった。
さて、私の挨拶の番である。日本新党の細川代表の名代であり、党の組織委員長として紹介された。会場は1000人以上の聴衆でいっぱいだが、大半は40代以上の女性たち。当時、私は毎日のようにテレビの主婦向けワイドショーなどに出ていた。ならば円より子が何者か、ほとんどの人が知っているに違いない――。腹がすわった。
いきなり「石原さんのご挨拶は控室のテレビで聞かせていただいておりましたが、離婚を勧める変な女のいる日本新党の代表として参りました」とやったら、会場中が大笑い。いける! 私は続けた。
「人は愛し合って結婚し、助け合わなきゃと思っていても、失業や倒産など思いもよらないことがあると、身内だからこそ、鬱屈した思いを露骨にぶつけ合って関係が破綻してしまう。残念ながら人はそんなに強くないんですね。だから弱さから離婚に至るケースもあれば、子どもを一人ででも立派に育てようと強い意志で離婚に踏み切る人もいる」
「日本新党は、一人一人の人々の生活を守る生活者主権、地域の声を聞き、地域の主体性を守る地方主権を旗印に政治活動を行なう政党ですが、どんな家に生まれようとどういう生き方を選ぼうと差別されず、尊重されて生きられる社会をめざしています」
割れんばかりの拍手をいただいた。
ちなみに、この衆院選(中選挙区制)で日本新党から出た山田宏さんは、東京杉並でトップ当選を果たし、石原伸晃さんは最下位の5位で当選。慎太郎さんが心配するのも無理がないほど、日本新党に勢いがあった。
日本新党の結党に私が参加したのは1992年6月で、繰り上げ当選で参議院議員になったのは翌年1993年7月だ。
たとえば、こんな具合である。
6月27日(日)には東京都議選の投票があり、公認した20人が当選し、29日(火)にはその祝勝会。翌30日(水)には細川さんが熊本へ飛んで、衆院選への立候補を発表、代わりに私が党本部で衆院候補者の打ち合わせ会で挨拶。夕方には「女性のための政治スクール」第1期の10回目を党ホールで開催。翌日7月1日は大阪へ飛び、堺市で候補者と演説、2日は東京で衆院選の政策記者会見を海江田万里さん、武田邦太郎参院議員らと行い、3日(土)は再び大阪から愛媛県松山市へ。7月4日(日)は総選挙公示日で、愛媛県松山市で中村時広さんの出陣式に出たあと、広島、新神戸、尼ヶ崎とまわる――。
選挙の応援演説やTV・新聞のインタビューなどで毎日忙殺されるなか、7月16日(金)に自治省から当選証書と議員バッチが付与され、初登院した。衆院選の最終盤で国会には議員は一人としておらず、マスメディアの姿もない、ひっそりとした初登院だった。
新聞には、私の繰り上げ当選を報じる数行の記事が出たが、「山﨑順子氏が繰り上げ当選」と書かれているだけで、友人知人の誰一人、私が参院議員になったと気づいた人はいなかったのである。それは日本新党関係者も同じだ。細川さんですら、「このヤマザキジュンコって誰ですか」と事務局長だった永田良三さんに聞いたのだから。
山﨑順子が、私の本名である。「順子」と書いて「ヨリコ」と読むのだが、子供の頃から「ジュンコ」と読まれることが多いため、1979年に初めての単行本を出す時、ペンネームを考え、円(マドカ)より子とした。「山﨑」は別れた夫の名字で、馴染みがないため、40数冊の単行本を出し、テレビや講演で活動している間も、一度も本名を公表しなかったから、「山﨑順子」は本人の私ですら他人のような感じだった。病院などで本名を呼ばれても、自分のことだと気づくのに、本などを読んで待っていると、ちょっと時間がかかる。
選挙は通称名が使えるので、日本新党の参院選比例名簿では「7位・円より子」と出してもらえたのだが、国会では本名しか使えないという。国会議員になって調べるてみると、衆議院では「不破哲三さん」が通称使用を許されていると分かった。参議院ではなぜダメなのか。私はすぐに「通称使用許可願い」を出し、書式もととのえ、議長に会いに行った。
「通称使用許可と権威が関係するのでしょうか」と問う私に、「そうです。変なカタカナの名前は困るんです」。理屈が通らない。
国民や有権者には、自分が支援した円より子が国会できちんと仕事をしているかどうか、知る権利がある。山﨑順子ではわからないではないか――。そういくら説明しても「カタカナは困る」と事務総長は頑(かたく)なで、「参院は貴族院です」とも言い放つ。当時の参議院には、コロンビア・トップさんなどが在籍していて、そういう漫才師の名前はよくないというのだ。
それでも私は通称使用許可を諦めなかった。扇千景さんや松あきらさんらを巻きこみ、1997年6月に使用が許可されることになった。ただ、1993年からそれまでのおよそ4年間の私の国会での活動は、議事録も含め、すべて山﨑順子が「主語」になっている。まるで一人の人間が分断されているようである。
その人のアイデンティティーともからむだけに、名前は大切である。結婚すると名字がかわる女性は、おそらく名前の問題に男性より敏感だ。通称使用許可が、扇さんや松さんら女性議員の後押しもあって実現した背景には、それもあったかもしれない。
話を1993年衆院選に戻す。
選挙戦たけなわの7月8日(木)、日本新党の党本部に何十本もの電話がかかってきたことがあった。出ると「日本新党はアカか」と言う。細川さんのお膝元である熊本の事務所からは、「円より子なんてクビだ」という怒りの電話もあった。
オロオロするスタッフから受話器を受け取った永田さん(事務局長)が聞くと、「夕方のテレビニュースを見ていたら、日本新党と共産党は一緒です。一体どうなっているんです」と言う。いったい、どういうこと?
選対本部長として、私はその日の午後、党本部でテレビ局のインタビューを受けた。PKOや消費税にくわえて聞かれたのが、「君が代・日の丸の学校での強制」についてだった。私は、「学校での強制には反対です」と答えた。
インタビューの後、私は埼玉県で選挙の応援をしていた。夕方には、大宮に党の大きな街宣車を出し、公募候補の枝野幸男さんの応援演説をし、そのまま党には寄らずに帰宅したから、党本部での騒ぎは何も知らなかった。
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