韓国の反共教育世代の胸に深く刻まれたレッド・コンプレックス
2019年03月31日
*この記事は筆者が日本語と韓国語の2カ国語で執筆しました。韓国語版(한국어판)でもご覧ください。
小学校3年生の頃、1960年代の半ばである。
筆者は幼い頃に病気のため脚部に障害を背負った。集中リハビリ治療プログラムのため、ほとんどの時間を入院して過ごし、特に小学校低学年時には通常の登校が困難であった。それで実家のある田舎の小学校に学籍を置いたまま、都会の病院で治療に専念していた。
そんなある日、久しぶりに短期の退院が許され、3年生のクラスに登校することとなった。同年代の友達と一緒に机を並べて授業を受けるのはほぼはじめてのことといってよく、それだけで筆者の胸は喜びにあふれ、希望に膨らんだ。病院でひとり教科書を読みながら、いつかは友達と一緒に勉強する日を心待ちにしてきたのだ。
だからその日の記憶はいまでもはっきりと残っている。
教科書を大声で読む国語の時間が終わって、エキサイティングな美術の時間になった。筆者の記念すべき第一回の美術の授業のために、母は48色のクレヨンを特別に用意してくれていた。
当時として48色のクレヨンは、夢のアートツールであった。多くの子どもは12色のものを持っていて、24色のものであれば最高という時代だった。それどころか、クレヨンを用意できず、先生に叱られながら友達のクレヨンを借りてお絵描きするようなこともふつうだったのだ。
生まれて初めての美術の時間を迎えた筆者には、心もからだも弱々しく自信がなくて、母が苦労して用意してくれた48色のクレヨンだけが頼りだった。
さて、その日の授業テーマは「反共ポスター」を描くことだった。
白い画用紙に友人たちは熱心にポスターを描き始めた。筆者も病院生活のなかで絵はたくさん描いていたので、これならできると思いながら絵を描きはじめた。
テーマが「反共ポスター」であるので、まず朝鮮半島の地図を描いた。まだ8歳の小学校3年生ではあったが、韓半島が南北に分断されていることはよく知っていた。それでその地図を南北に分ける鉄条網を中央に描いた。
そして…その時筆者は、「反共」が必要なのは国が分断されているからであり、もし統一ができた場合には、「反共ポスター」のようなものを描く必要もなくなるだろうと考えた。だから北朝鮮人と韓国人が鉄条網を中央に挟んで互いに握手をしている絵を描いた。
いま思えば、筆者の絵は反共を超えて統一の理想を表現するというひとつ次元を進めたテーマであったのだが、そこに至るには超えなければならないおおきな問題があった。
当時の小学校の教育においては、北朝鮮人はヒトではなかった。北朝鮮人を表現するときは「鬼」のように、あるいはあの恐ろしい動物、オオカミの顔で表現するのが約束事となっていた。きれいな顔をしたヒトに描いてはならないという不文律のようなものがあったのだ。
さらにはその姿は、絶対に青や緑などのきれいな色で描いてはならず、赤くまたは黒く刺激的な色で描くのが常識であった。だがしかし、1年生の時から学校教育を受けられなかった筆者には、それがわからなかった。
筆者の絵では、北朝鮮人もきれいな顔をして笑顔であった。着ている服は、48色のクレヨンを駆使して、色とりどりに描いた。特に筆者が好きな青や緑などの色彩を多く用いた。もちろん韓国人もできるだけきれい明るく描いた。ピンクやオレンジなどの暖色系の色を多く使用したように記憶している。
筆者の「反共ポスター」ならぬ「統一ポスター」が完成に近づくにつれて、筆者の胸は高鳴った。
ポスターに書き添える標語は、「反共を超えて私たちの願いは統一」と書いた。きっとまちがいなく先生は誉めてくれるだろうという期待に、子供心はときめいた。ちらと横目で見た友人たちの絵は、色も構図も粗雑だ。筆者は、先生が自分の席に来るのをいまかいまかと気をもみながら待ち受けた。
そして、ついに担任の先生が近づいてきた。
先生にしても、ほぼ初めて登校した筆者がどんなポスターを描くのか気になったのであろう。筆者ははや先刻完成していた絵に、もっともっときれいな色を塗り重ね、先生の称賛を内心待っていた。が、しばらくの後、先生はかなり不満気な顔で、筆者の絵を持ち上げながら、こんなことを言ったのである。
「ソジョンミンは反共ポスターがなんなのか知らないようだね。なぜ北朝鮮傀儡徒党をこんなにきれいに描くのだろう。またこの色はなんなのだ。学校に通うことができなくて、まったく勉強ができてないんだな。みんな、自分が描いたポスターをもう一度見てみましょう。ソジョンミンのように反共ポスターを描くのはダメだよ。わかった? さぁ、まだすこし時間があるから、ソジョンミンは新しい画用紙に描き直してみよう。いいかい、北朝鮮の傀儡はオオカミの群れのように描くんだよ、先生の言ってることわかる?」
筆者は涙があふれそうだった。もちろん反共ポスターをもう一度描き直す力も気持もなかった。長い間、机に突っ伏して大粒の涙をぽたぽた流した。先生が誉めてくれず、叱られたことがショックだったし、先生がなぜ人を狼のように描けというのかまったく理解できなかった。人を描くときにはできるだけきれいに、できるだけ笑顔で描くことが良いにきまっているではないか、それをなぜ、という疑問はいつまでも消えることがなかった。
家に帰ってきても母の前で再び泣いたし、夜は悪夢にうなされた。
それから20年以上が過ぎた。筆者は、1985年に初めて海外旅行を経験し、1989年には日本に留学することになった。
初めて韓国を離れた頃には、ほとんどの韓国人のパスポートが単数旅券だった。長期であれ短期であれ、政府の許可を受けてパスポートを作成し、旅行から戻ったらそのパスポートは廃棄されるのが決まりであった。
そのうえパスポートを受けるには複雑な手順と審査が必要だった。ほぼ一日をかけて、ソウルの南山にあった「自由センター」に行って徹底した事前教育を受けなくてはならないのだ。
そこでの教育は、国の安全情報関連機関が主導していたと思われる。海外に出たときに北朝鮮のスパイのアクセスから身を守る方法や、いくつかの地域で共産主義者と出会ったときにそれを上手にやり過ごす方法を教えることなどが主な教育内容だった。
また、日本を旅行する者たちには、当時は北朝鮮のスパイ同然にみられていた朝鮮籍の同胞、つまり朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯合会)に所属する同胞たちとの交流に気をつけることが強調された。さまざまな手口を講師が講義するだけでなく、映像資料なども交えて、繰り返し繰り返し警戒が呼びかけられた。
筆者をはじめとして、当時韓国を離れて外国に出ていく韓国人には、北朝鮮のスパイに対する漠然とした不安があり、またいまとなっては申し訳ないことながら、朝鮮総連への恐怖感があったこともまた事実である。
1989年、筆者は留学生として日本に来た。日本での生活を始めた京都の街で、筆者の目にもっとも奇異に感じられたもののひとつが、街角のポスターにある「日本共産党」という文字であった。
日本では「共産党」も政党であり、そこに所属する国会議員がいるという事実に、筆者は最初かなりの違和感を感じた。やがて「日本共産党」の存在と日本の政治における役割について理解ができるようになったのだが、それでもなお、徹底した反共教育を受けて育った筆者の世代には、「共産党」という文字自体がいわく言いがたい拒否感を伴うものであった。
このように当時の筆者は、何度かにわたって朝鮮総連に所属する同胞たちとの交流を禁止する教育を受けたが、いざ留学生活が始まってみると、すぐに彼らとの出会いは日常のものとなった。大学内では、民団出身の学生も総連出身の学生も気兼ねなく隣り合って勉強し、そこに筆者たち韓国からの留学生も加わった。時には一緒にスポーツイベントや野外活動を楽しみ、打ち解けた酒宴も開かれたのである。
そこには、イデオロギーの対立や理念の葛藤はなく、自他の帰属に起因する「コンプレックス」なども無用の世界であった。
結局のところ、筆者たちの世代が受けてきたドグマティックな反共教育は、むしろ韓国内部の政治的目的を達成するために持ち出されてきたものであったということができる。そして同様の意味で、北朝鮮社会での理念教育、すなわち韓国と米国を主たる対象とする敵対的な教育なども同じ脈絡で理解することが可能であろう。
朝鮮半島の雰囲気は徐々に変わりつつある。
最近の和解ムード以前から、南北の指導者による交流、協力の礎石が置かれてきたし、いまではそのうえに立って、平和と統一に向けた歴史的和解の進展が本格化している。
南北の首脳が板門店境界線を挟んで会い、握手を交わし、一緒に散歩をしたとき、筆者を含め大半の南北と海外在住韓国人たちは感激の涙を流した。そして、最終的には分断と対立、戦争の歴史を終え、統一の可能性を夢みることができることで、希望と幸福感に満たされた。
しかし一方で、筆者の世代に代表されるような、徹底した反共教育を受けてきた一群の韓国人たちが感じる違和感、不安、あるいは内面的な混乱についても、私たちは目を向けなければいけないであろう。
世界あるいはアジア、そして朝鮮半島の歴史の流れを合理的に理解しようとするなら、これによって大きな問題が解決の緒についたとみることは当然である。しかし、幼い頃から原始的ともいえる反共教育を繰り返し受けた頭脳には、反共つまり北朝鮮に対する不信と共産主義に対する警戒や懸念が、拭いがたい感情的な「トラウマ」として残存し、作用しているのである。
実際のところ、韓国ではまだ共産主義は合法化されていない。「レッド・コンプレックス」は少なからぬ国民の意識に深く根をおろし、共産主義に対する否定的感情は韓国社会の土台の一部になっているといってもよい。その超克のためにはおそらくまだまだ時間が必要であろう。これもまた南北の統一のみならずアジアの和解と平和のために、私たちに突きつけられた歴史的課題である。
ともあれ、事実として読者諸賢が知るような、韓国の一部階層による極右的反政府デモの背景に、筆者たちの世代が経験した感情的な反共教育、「レッド・コンプレックス」が重要なファクターとしてあることを見過ごすことはできない。
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