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元号という、上から指定される時代区分は不要

三島憲一 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

平成最後の饅頭(まんじゅう)=2019年3月21日午前10時27分、岐阜県関市拡大世の中は「平成最後の~」で溢れかえっている。こちらは「最後の饅頭」=岐阜県関市

「ソンタク元年」はどう?

 唯一言えることは、国家にとってよほど重要なことなのだろう、というなんとなくの推測だけだ。しかし、なぜそれほど重要なことかは、私の頭脳では理解できない。国民の人権をおたがいに擁護し合おうという約束を憲法という形で制定した人々の集まりであるはずの近代国家にとっては、どうでもいいことのはずだ。明日からなくなってもどうということはないはずだ。どうでもいいことを、もったいつけて重要視して、国家の中心にいる人々を幽遠かつ重々しく見せたいだけだろう、という程度しか思いつかない。背後には伝統とか、日本文化とか、日本精神とか、日本の慣習とか、曖昧模糊とした思い込みがあるのかもしれない。

 だが、これが曲者だ。日本の慣習と思っているものの多くは、中国に由来するものだ。元号も中国が遥か昔に始め、日本やベトナム、時には朝鮮半島の王朝が、模倣したものだ。いわば中国の猿真似だ。時には中国からの距離を示すために、中国に黙って勝手に使い出したものでもあるようだが、猿真似にはちがいない。日本の上層部が、時には石原慎太郎のように「シナ」などと呼んで、心底嫌いな中国のおかげで存在するものだ。「天皇」という名称も「シナ」由来なのだ。

 それに日本の元号の多くは漢籍から取ったものらしい。明治後半以降急速に読まれなくなった漢籍だが、新元号のときにだけ、『礼記』などの、どこかで聞いたことのあるような、ないような漢籍のタイトルをマスコミで読んだり聞いたりして「ふ〜ん」と思うのが大方だろう。漢籍から選ぶのが日本精神の精髄だという詭弁はなりたつが、あまり日本文化とは関係なさそうだ。だいたいが、これは加藤周一さんがもうだいぶ前に言っていることだが、「精神」とか「文化」とか言っても、西洋の言葉を訳してできたもので、日本固有でもなんでもない。

 そんなこともあってか、漢字が苦手なことでは折り紙つきの首相が、日本の古典から選ぶのはどうかと内輪で提案したとかしないとか。それなら平仮名、片仮名、横文字だって可能だろう。「ソンタク元年」などというのも面白いかもしれない。

 それに中国でも日本でも昔はほんの数年で元号を変えた例も珍しくない。戦乱があったり、天変地異があったりすると、人心一新、新規蒔き直し、縁起直し、ということで改元が相次いだ。元号ではないが、村に大火事があったりすると、正月をもう一度祝ったりする縁起直しの例もあったようだ。幕末の木曽の世界を描いた島崎藤村の『夜明け前』には実際にその例が出てくる。暖かい最中に門松立てて、お雑煮を食べて厄払いというのだ。要するに人間の世界と天変地異や疫病に関係があると思う、素朴な、神主的な思考の産物だ。元号を変えても変えなくても地震は起きるし、火山は爆発するのに。

 事実上、一世一元になった明治以降は、多少とも天変地異と人間の営みとは無関係なことを人々が理解したようだ。一世一元が法的に定められたのは1979年の元号法によるが、いずれ昭和天皇が死去することを見据えての立法だから、それこそ失礼といえば失礼だ。天変地異との関係が消えただけに逆に人間世界の、それも支配体制の枢要事となって、いきすぎたうやうやしさ、重々しさ、仰々しさとなり、マスコミがはしゃぐことになったのかもしれない。

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筆者

三島憲一

三島憲一(みしま・けんいち) 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

大阪大学名誉教授。博士。1942年生まれ。専攻はドイツ哲学、現代ドイツ政治の思想史的検討。著書に『ニーチェ以後 思想史の呪縛を超えて』『現代ドイツ 統一後の知的軌跡』『戦後ドイツ その知的歴史』、訳書にユルゲン・ハーバーマス『近代未完のプロジェクト』など。1987年、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞、2001年、オイゲン・ウント・イルゼ・ザイボルト賞受賞。

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