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令和へと替わる平成は「来なかった未来」の時代

二つの改元を見た記者が考える平成の30年(上)

三浦俊章 朝日新聞編集委員

首相官邸で新元号「令和」を発表する菅義偉官房長官=2019年4月1日午前、首相官邸首相官邸で新元号「令和」を発表する菅義偉官房長官=2019年4月1日午前、首相官邸

決定的に違う二つの改元

 「新しい元号は令和であります」

 1日、菅義秀官房長官による新元号発表の記者会見を聞いたとき、私の思いは「平成改元」のあの日に、一気にフラッシュバックした。

 1989年1月7日。当時の小渕恵三官房長官が、机の上にふせていた額を掲げて、「新しい元号は平成であります」と緊張気味の声で話し始めたとき、私は長官の10メートルほど前にすわっていた。朝日新聞政治部に配属になって8カ月目。駆け出しの政治記者だった。まさか記者生活のうちに元号発表を再び見届けるとは予想もしなかった。

 だが、今回はあの時とは何かが決定的に違う。

 それは、この30年という時間に流れた日本の政治と社会の変貌があるからだ。

昭和という巨大な時代が終わった平成改元

「平成」の元号を発表する小渕恵三官房長官=1989年1月7日、首相官邸「平成」の元号を発表する小渕恵三官房長官=1989年1月7日、首相官邸
 平成改元の記者会見のとき、小渕官房長官はひどく緊張していた。着席すると一瞬天をあおいで、深呼吸をし、あわただしく眼鏡を直した。手もとも落ち着かない。マイクに入るほど大きな音を立てて、発表用の紙を広げた。

 長官が感じた重圧は、会見に出席していた記者も共有していた。平成改元は、新しい時代の始まりというよりも、昭和という巨大な時代の終焉(しゅうえん)だと受け止められていたのだ。

 昭和とは、くっきりとした輪郭でとらえられる時代である。無謀な戦争に突入して破滅に至った「戦前・戦中」。廃墟から復興し、経済大国となった「戦後」。そして、ふたつの昭和を、ひとりで体現する人物がいた。それが昭和天皇だった。「英明な君主」と称えられる一方、戦争責任をめぐる論争が、晩年まで止むことはなかった。

 1989年1月7日とは、その昭和天皇が逝去した日であり、その結果、新元号が発表されたのである。当日の朝日新聞の夕刊の見出しは、横に大きく「天皇陛下 崩御」、二番目に縦の見出しで「新元号『平成』」とある。三番目の見出しは、「激動の昭和終わる」だった。

期待が外れた平成の30年

昭和天皇の逝去を伝えた朝日新聞号外など昭和天皇の逝去を伝えた朝日新聞号外など
 1988年9月19日に昭和天皇が大量の下血をして以来、政府もメディアも「Xデー」に備えていた。111日目に、その日は来た。それだけに、昭和が終わったというインパクトが何よりも強かった。今回、事前に様々な元号案の予想が流れ、発表後も一種の「奉祝ムード」が漂っている風景を見ると、これはまったく新しい事象だなと思う。

 それでは平成とはどんな時代だったのだろうか。

 1988年6月に、政治記者生活をスタートした私にとって、平成の30年は自分の記者人生とほぼ重なる。平成が始まった当初、私は「新しい政治」の時代が来るのではないか、というぼんやりとした予感、期待を持っていた。

 いま思い起こすと、それは三つに大別できる。

① 日本にも政権交代が可能な政党政治の時代が来る
② 東アジアにおける多国間の枠組みができる
③ アジア諸国との歴史和解が進展する

 だが、そのいずれも実現しないか、または不十分に終わった。

 平成とは「来なかった未来」の時代でもある。なぜ予想は外れたのだろうか。

冷戦終結を前提に立てた三つの予測

 三つの予想の前提には、冷戦が終わったという国際政治の大転換があった。

 戦後日本を規定したのがこの米ソ冷戦だった。1951年に締結したサンフランシスコ講和条約と日米安保条約により、日本は西側の一員として国際社会への復帰が認められた。社会主義勢力に政権を取らせるわけにはいかない、という保守陣営と財界の強い意思が、自民党の長期政権を支えていた。

1989年11月、東西冷戦の終焉を象徴するベルリンの壁が崩壊。写真は、ベルリンの壁解放後初めての日曜日、西側から壁とブランデンブルク門を見ようと集まった東独の市民ら=1989年11月12日 1989年11月、東西冷戦の終焉を象徴するベルリンの壁が崩壊。写真は、ベルリンの壁解放後初めての日曜日、西側から壁とブランデンブルク門を見ようと集まった東独の市民ら=1989年11月12日
 だが、平成初めにソ連も存在しなくなり、政権交代の「リスク」はなくなった。日本でも、他の先進デモクラシー国と同様、政権交代が実現し、国民の関心により応答する政党政治が実現するのではないか、と考えた。

 また、ソ連を仮想敵とする日米安保条約の存在意義も問い直されることになるだろう、と思った。米国は日米安保のコストを再考するかもしれない。東アジアの安全保障について、多国間の枠組みができる可能性も浮上した。90年代初頭に私が担当していた防衛庁(当時)では、アメリカがアジアから手を引くのではないか、と真剣に懸念する声があった。

 アジアとの歴史問題については、冷戦によって凍結されてきたのだから、冷戦が終わる以上、それが浮上するのは避けられない、と予想した。

 歴史問題では、日本とドイツがよく比較されるが、両国の政治的環境の違いが大きい。戦後のドイツは、ヨーロッパ統合のプロセスに参加する以上、周辺国との和解は不可欠であった。また、米国との同盟を強化・維持するためには、米国と強い絆を持つイスラエルとの良好な関係も必要だった。

 いっぽう、日本はといえば、かつての植民地朝鮮は南北に分断され、侵略した中国は共産主義の陣営にいた。日米安保が最優先で、アジアとの和解は後回しだった。だが冷戦後は早晩、ドイツのように歴史問題に取り組まざる状況が来ると思った。

 いずれの予想も、そうはならなかった。なぜか。

日本特有の「二大政党神話」が災い

新元号「令和」について記者会見する安倍晋三首相=2019年4月1日午後、首相官邸新元号「令和」について記者会見する安倍晋三首相=2019年4月1日午後、首相官邸
 2009年の総選挙で民主党が大勝し、初の本格的な政権交代が実現したが、2012年以後は、安倍晋三政権が「安倍一強」体制を続けている。政権交代の政治は突如、固定化した「首相統治」(政治学者の三谷太一郎・東大名誉教授)に転化した。90年代の政治改革を取材していた私の実感では、日本特有の「二大政党神話」が災いしたと思う。

 日本のデモクラシーがうまくいかないのは、政権交代をする二大政党がないからだ、二大政党を可能にする制度改革をしさえすれば、日本の政治はよくなる――という、信仰のようなものがあった。そこには、すでに1970年代から欧米で議論されていた議会制民主主義が多様な国民の声をすくい取れずに行き詰まっている、という問題意識や、制度改革で強化される首相権力をどうチェックするかという議論は、ほとんど見られなかった。

 今日、欧米諸国で、議会による合意形成が難しくなり、政治家がポピュリズムやナショナリズムに訴えたり、強権的なアプローチで押し切ったりする手法が広がっている。野党との合意形成を軽視し、多数派の意思で貫徹しようとする安倍政権は案外、世界の潮流に合う今日的な政治手法なのかもしれない。

ヨーロッパより厳しいアジアの国際環境

 東アジアに多国間の枠組みができなかったのは、ヨーロッパよりも厳しいアジアの国際環境が要因だろう。長い歴史のスパンで見ると、大国の地位に復帰した中国が、自分たちが弱小だった時代に定められた国際ルールの見直しを求めている、といえよう。冷戦の残滓(ざんし)である北朝鮮は、核兵器とミサイルの開発に独裁体制の存続を賭け、各国の利害の対立を巧みに利用して、瀬戸際外交を続けている。

 こうしたパワーポリティックスに加えて、各国では領土問題や歴史問題に根ざすナショナリズムが吹き出した。政治家はそれを制御できないばかりか、むしろ自分たちの支持固めや権力強化に利用する悪循環が存在する。安全保障で対米依存をますます強める日本では、残念ながら、アジアとの和解問題の比重は下がる一方だろう。

一国単位の統治を難しくしたグローバル化

 いま考えると、冷戦終焉を歓迎するあまり、冷戦を終わらせたグローバルな力学への理解が足りなかったと反省する。経済と情報で世界をひとつにするグローバル化は、一国単位の政治の統治を難しくした。

平成は世界が混迷した時代。先進デモクラシーの混迷は止まらない。英国のEU離脱をめぐる二度目の国民投票を求めるデモ行進=2019年3月23日、ロンドン
平成は世界が混迷した時代。先進デモクラシーの混迷は止まらない。英国のEU離脱をめぐる二度目の国民投票を求めるデモ行進=2019年3月23日、ロンドン
 グローバル化に最初に崩されたのが、共産党支配が硬直化していた社会主義諸国だった。その後、その波は先進デモクラシー諸国にも押し寄せた。国境を越える市場の力は、政府がコントロール出来る問題領域を狭め、同時に議会による合意形成も難しくなった。国民の不満は、国民投票であれ、街頭行動であれ、単純な怒りとして爆発する。

 今日のデモクラシーは、強権的政治と直接行動の間で揺れている。日本は、地域コミュニティーのつながりなど社会の強靱さがまだ残っている分、その病弊が抑えられているだけではないか。

 平成とは、国境がなくなった時代である。こうした時代に生じた先進デモクラシー共通の病理として、日本の問題は考えねばならない。だが、同時に、日本特有の問題があらわになったのが平成という時代だった。それは、稿を改めて論じたい。(続く)