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韓国・済州島、71年後の「4.3事件」

文在寅政権下で広く注目されるようになった島民虐殺事件。4月3日を前に島を訪れた

市川速水 朝日新聞編集委員

島民が官憲に虐殺された71年前の事件に脚光

 久しぶりに3月末、韓国・済州島(チェジュド)を訪れた。幹線道路や公園、大学路に連なる桜はちょうど満開。甘い香りに包まれていた。

 日本の対馬よりも南方にあり、中国の上海や韓国の釜山、光州にもほど近い。カジノも大型ホテルもあり、いまは街中が中国人であふれている。

 リゾート地には違いないが、戦中・戦後の歴史をひもとけば、なお71年前の大きな傷は癒えず、韓国という国にとって、今はアジアの観光地として飛躍させる地であるだけでなく、政治の「リトマス試験紙」のような政権の性格を映す存在にもなっている。

 同じリゾート地の沖縄と雰囲気が少し違うのは、島全体が楕円形で、真ん中に漢拏山(ハルラサン)という韓国最高峰の山がそびえていることだ。

 島そのものが火山活動でできたため、全体が溶岩で黒っぽく、風が強くて時々痛いほど。昔から漁などで働く元気な女性も多いことから、女、石、風の三つが際立って多いという意味で「三多島」とも呼ばれてきた。

済州島特有の守り神「トルハルバン」。「石の爺さん」という意味で、街のあちこちで会える
 だがもう一つ、圧倒的に目を奪うのは、山から四方八方、海岸に向かって広がる密林だ。

 第2次大戦末期には、日本軍が米軍と徹底抗戦を繰り広げるために隠れて陣地をつくった。そして71年前の「4.3事件」、つまり官憲が島民を虐殺した事件でも、この密林のなかで悲劇が繰り広げられた。

 この事件の背景や、悲劇が次の悲劇を呼んで虐殺が拡大していった経緯は、相当複雑だ。

 日本統治の島が日本の敗戦を機にすっぽり空白になり、島は米軍の統治下へと移る。北緯38度線を挟んで米ソがにらみ合う中で、島民はアイデンティティーを奪われたままだった。

 米ソが膠着するなかで、南北互いが建国に向けて動き出す。南北分断したまま単独で大統領選挙をするべきか、半島統一を堅持すべきか、人々の立場も分かれ、デモや集会が頻発した。

 南側の体制を批判する若者中心の「武装隊」がゲリラ的に蜂起したことをきっかけに、警察などによる復讐的な大討伐が始まった。大韓民国樹立後、政府は軍兵力による鎮圧に踏み切り、島に戒厳令が出された。

 さらに朝鮮戦争が起こると、刑務所の服役者も殺された。虐殺は7年間余に及び、女性や子どもも巻き添えになった。犠牲者は全島で2万5000人から3万人に及ぶとされる。全島民の1割以上に上ったのだった。

 さらに悲惨だったのは、この事件が長い間、北朝鮮と対峙する韓国軍事政権が「共産主義者による暴動」と烙印を押したためタブー視され、被害者や遺族ですら事件を口にできない時代が半世紀続いたことだった。

 今回、島を訪れた目的の一つは、そんな半世紀の沈黙を破り、最近、急速に光を浴びてきた4.3事件の象徴を見ることだった。

金大中、盧武鉉、そして文在寅政権が後押し

 済州空港が楕円形の島の最上部だとすると、空港から漢拏山の方に向かって小1時間ドライブすると「済州4.3平和公園」という施設に着く。

 10万坪を超え、公園内でも歩いて移動できないほどの敷地に、2003年ごろから造成され始め、今も整備が拡大し続けている。これら全部の施設に足を運ぼうとすれば、丸1日はかかるだろう。

真っ青な空の下で行方不明者の標石が続く=済州島

 事件が社会的・政治的に認知され、慰霊や関連施設整備にと歯車が回り出したのは、2000年、「済州4.3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」が公布されてからだった。

 推し進めたのは民主派勢力初の大統領、金大中(キム・デジュン)氏だった。続く盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権も後押しし、保守政権に戻って若干、停滞したが流れは止まらず、三たび民主派勢力となった文在寅(ムン・ジェイン)政権になって花開いた形となった。

 4.3事件が認知される土壌がつくりあげられるまでには、日韓の民間レベルの、地味で息の長い活動もあった。
まず、在日社会からの、告発にも似た文学作品群だ。特に在日朝鮮人作家、金石範(キム・ソッポム)氏は1950年代から事件をモチーフにした小説を書き始め、1976年から22年間にわたって、超長編「火山島」を文芸誌に連載。大佛次郎賞も受けた。韓国語にも全12巻が翻訳され、増刷されるほど注目を浴びた。

 1980年代後半からは、遺族ら在日社会を中心に、真相究明運動が始まった。在日コリアン社会は戦中も戦後も済州島出身者が多い。大阪との定期旅客船も戦前からあった。軍事政権下の韓国で告発できない事件は、ひそかに日本で語り継がれてもいた。

真相究明に努めた地元の新聞

 一方、韓国では、地元の済民日報という、読者を株主にした当時としては珍しい経営の新聞が、1990年から4.3特別取材班を組み、事件の証言者を探したり、真相究明につながる資料を発掘したりする長期連載を始めた。連載は10年間にわたり、計456回。その時の社会部の中心的存在だった梁祚勲(ヤン・ジョフン)さんが、今、公園を運営管理する「済州4.3平和財団」の理事長を務める。

「4.3の背景をぜひ知って欲しい」と施設を説明する梁祚勲理事長
 梁さんは1948年、まさに事件が始まった年に生まれた。たまたま肉親に犠牲者がいなかったことが、逆に島の真相を調べたいという意欲につながり、また、個人的な復讐心からではないと見られたことが、遠いソウルにもジャーナリスティックな動機が理解されたのではないか、と振り返る。

 そこに、政治体制を超えて、過去の様々な事件の真相を明らかにしようとした金大中氏が登場した。自身が東京で韓国情報機関に拉致された事件もその一つとして知られるが、4.3事件についても過去を清算するための法的・制度的な仕組みをつくる約束をした。

 その真相究明の土台となる調査報告書づくりのチーム長になったのが梁さんだった。

 このあたりの、韓国全体が事件を認知していくいきさつ、真相が今、どの程度解明されているのかに関しては、昨年9月に日本で発刊された「済州島を知るための55章」(編著=梁聖宗・金良淑・伊地知紀子、明石書店)に詳しい。

 この本は、済州島の豊かな自然や風土に触れながら、日本との歴史的な深いかかわり、そして4.3事件にも深く触れている、類書のない分析本といえる。

 そして、「4.3」の名誉回復の方法について合意されたのは、個人への謝罪や被害補償というよりも、

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