元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界④女性の政治参加を求め続けて……
2019年04月06日
連載・女性政治家が見た! 聞いた! おもしろすぎる日本の政治
「めんどりが時を告げれば国亡ぶ」というという言葉がある。
女性が政治に口を出すとろくなことがない、女が権勢をふるうままにすると国が滅びるという意味の、中国の故事だという。
これってどうなんだろう?
この連載の初回「強姦罪の審議でおじさん議員が放った有り難いヤジ」で私は、さまざまな分野で多様性が増すであろうポスト平成の日本において、男性政治家だけでは対応できなくなるのは明らかだ、と書いた。国の未来は、女性たちがどれだけ声をあげるかにかかっている。それは、ポスト平成の日本に限らない。これまでもずっとそうだった。
だからこそ、1992年夏に日本新党に関わるようになったときから、私はどうすれば女性が政治に関心をもってくれるか真剣に考え続け、さまざまな取り組みをした。日本新党のボランティア委員会もそのひとつ。大勢の女性たちが登録してくれて、細川護熙さんの日本新党づくりを手伝った。緑のポケットチーフをつくって寄付も募った。
町で買物をしている女性たちに話しかけたときのこと。「日本新党の円です」と言うと、「日本神党? 円さん、信者なんですか」と。新しい党としてではなく、宗教の神党の一種と思ったのか。そんな女性は結構いて、脱力したのを覚えている。
93年夏の都議選や、間近にあるかもしれない衆院選のため、女性の候補を選んでほしいと細川さんから頼まれていたが、「この人は」と思う女性ほど、政治に距離をおいていた。「政治はまさに生活。私たちの生活を良くするのも、子どもの将来も平和もまさに政治」と熱意をこめて語っても、政治は縁遠い存在らしかった。
そういう私だって、日本新党に関わるまでは、娘をやっと寝かしつけて、原稿を書いているときなどに、選挙カーが走ってきて「〇〇です。〇〇をよろしくお願いします」とがなりたてられると、頭にきて窓を閉めていた。「住宅街では、マイクを規制するべきだ」と憤懣やる方なかったのだから、まことに現金なものである。
日本新党で私がまず、手がけたのが、党則に「クオータ制」を入れることだった。
1986年、ノルウェーでブルントラントという女性が首相になった。彼女は閣僚の4割以上に女性を起用し、「女の内閣誕生」と世界中で話題となった。同国では、78年に男女平等法が制定され、「4人以上の公的機関はそれぞれの性が40%以上でなければならない」とされており、内閣にもそれを適用した。この割りあてのことを「クオータ」と呼ぶ。その後、同じ北欧のデンマークやスウェーデンでも「クオータ制」が採用され、女性の政治参加が進んでいた。
日本にもこの「クオータ制」を導入しようと考えた私は、手はじめに日本新党で試すことにしたのである。
ここで、日本における女性政治家の歴史を振り返ってみたい。
我が国では戦後、女性にも参政権が付与されたが、女性議員は国も地方も数少ない状態が続いた。1946年4月10日におこなわれた戦後初の第22回衆院選では、定数466人中39人が女性議員(8.4%)だったのに、翌年47年の第2回目衆院選では15人(3.2%)と半減、51年衆院選では定員が511人に増えたにもかかわらず、女性議員は6人(1.2%)というありさまだった。
興味深いのは、戦後第一回目の衆院選で39人の女性議員が誕生していることだ。理由は何だったのか。
一番の理由は、選挙制度が今と違って大選挙区連記制だった点にあると思われる。連記制も2人区と3人区があって、一人の有権者が、二人または三人まで投票したい人の名前を書けた。三人区は二人区よりも女性の当選者が多かった。一人目、二人目は男性候補者の名前を書くが、三人目は女性にするといった選択が多かったのだろう。二人目、三人目なら、目新しい女性でもいいかということだったらしい。
次の選挙で女性の当選者が急減するのは、この連記制が廃止されたのが大きい。そして、国政選挙で女性の当選者が1946年の39人を超えるには、実に59年も待たなければならなかった。
それは2005年9月の第44回衆院選。小泉純一郎総理が郵政解散を断行し、全国に刺客を放った、いわゆる「郵政選挙」である。このとき女性の当選者は43人と、初めて第1回の39人を上回ったのである。自民党は296議席を得て圧勝。女性議員も9人から26人へと大躍進した。ちなみに次の第45回衆院選(2009年)。民主党が政権交代を実現した選挙では、衆議院の女性議員が初めて10%を超えた。
ただ、私はこれは制度の問題だけではないと感じている。戦後すぐの時代は、みな生き抜くことに必死で、男も女もない時代だった。ところが、世の中が落ち着いてくると、伝統だの道徳だのが頭をもたげてくるものらしい。政治の世界でも、「女が政治?とんでもない」という風潮が幅をきかしだした。
女性が参政権を得てから70年以上も経っているが、いまだに女性が選挙に出ようと勇気を出しても、周囲の反対で断念することが少なくない。家族、特に夫の反対が多い。昔ながらの家族観、親子観、夫婦観が影響しているのだろう。
それでも最近は、女性が議員として働きやすい環境が、少しずつだが整いつつある。たとえば、東京の足立区は、区議会の本会議場脇に託児室を設けたり、妊娠中は坐ったままで質問ができるようするなど、さまざまな取り組みをはじめた。
思えば、私が1993年に国会議員になった頃は、地方自治体で女性議員ゼロのところも多かった。笑えないエピソードがある。地方行政委員会で秋田県に視察に行った際、午前中の会議が終わり、昼食休憩になったのでトイレに立とうとしたら、職員が飛んできて、「すみません、こちらの棟には女性トイレがないんです」という。結局、県議会棟の隣の別棟まで連れていかれた。
国会だって、今でこそ女性トイレが整備されているが、以前は議事堂のトイレは男性のものしかなかった。その名残りからか、入口は同じ。男性が右、女性は左に分かれ、仕切りは半透明の並板なので、向うの男性の影が見えるようなお粗末なものだった。
選挙制度を連記制に戻すには法律を変える必要があるが、クオータなら各政党が独自の判断で取り入れられる。そう考えて取り組んだのだが、実際に党則にクオータ制を採用しようとすると、大きく二つの問題が指摘された。
ひとつは男性に対する逆差別だという指摘である。そうした声に対しては、世界の半分を支えるのは女性であり、その半分の女性たちの声を聞く必要があること▽もともと政治の世界への進出が遅れた女性は、経済的に男性と格差があるというハンディも抱えており、だからこそ割りあて制が必要であること▽女性が多くなりすぎることのないよう、それぞれの性が◯%を下回らないものという形にすること▽女性は政治に向かないという従来の「思い込み」を変えていくのも日本新党の役割だ――などと訴えた。
もう一つの問題は、クオータ制を適用すると、実際には党則違反が起きるのではないかというものだ。実際、当時はどんなに口説いても出馬を断る女性が多く、決められた割り当てに届かない公算が大きかった。そうなったら党則をまた変えればいいということで妥協した。
こうして党則に盛り込まれたクオータ制だが、まず実現したのは、執行部構成員への適用である。具体的には、党の意思決定機関に2割以上の女性が入ることになったのだが、これは予想以上に大きな効果があった。
当時、各政党とも、意思決定機関にはほとんど男性しかいなかった。内閣の女性閣僚の少なさをみても、それは明らかだ。長年、政治の世界にいると、意思決定の場にいることの大切さが骨身にしみてわかる。そこに女性がいないというのは、とんでもないことなのだ。
だからこそ、私は後に民主党で、東京都連の会長にも立候補したし、国対委員長代理や副代表も引き受けた。政治においては、「その場」にいることが大切なのだ。
日本新党で次に私が取り組んだのは、「女性のための政治スクール」の開校だった。細川さんらの承認は得たものの、当初は「スクール」にも、「なぜそんなものを」と難色を示された。とりわけ、細川さんが参議院議員の時からの秘書だった関上伸彦さんをはじめとする“熊本家臣団”は、「女性の」というだけで顔をしかめるところがあった。
校長を加藤シヅエさんに依頼することにした。シヅエさんは、先述した1946年の衆院選で当選した39人の女性議員のお一人である。日本新党の広報委員長である加藤タキさんの母堂であり、衆参合わせて28年間議員として活動した。
シヅエさんは「産めよ増やせよ」の戦争の時代に、アメリカで出会ったサンガー夫人に習い、産児制限の運動を広め、各地の女性たちに避妊具を送り続けた「人物」である。その頃は、非国民とののしられ、石つぶてで自宅の窓ガラスを割られることも度々あったという。
「高齢過ぎないか」という意見もあった。確かに、90代のシヅエさんは高齢かもしれない。しかし、人は個体差がある。私は彼女のひるまない勇気、凛々(りり)しい生き方、女性たちの自立を支援し続けた活動に魅せられ、校長にはシヅエさんしかいないと確信し、彼女の家を訪ねた。
「円さん、女性議員を増やすことは大賛成よ。私がもう少し若かったら一緒にやりたい。ただ、私は自分を年寄りとは思わないけど、やっぱり96歳だから、娘のタキを校長にしてくれないかしら」とおっしゃる。そこで名誉校長になっていただいた。
生徒募集をすると、党本部のすべての電話が問合せでパンク状態になった。文句を言い続けていた関上さんらも「おう、すごいな」と喜んでくれた。結局、1400人が応募。レポート提出を課すことにして、そこから100人を選んだ。この100人の中には、その後、原発問題で活躍することになった飯田哲也さん(男性ですが)や、今も鹿児島で女性スクールを開いている女性市議など各地で地方議員になった人たちがいる。「女性の」と銘打ってはいたが、いわゆる「地盤・看板・鞄」のない男性も歓迎。老若男女を問わなかった。
開校したのは1993年2月初旬だったが、実はその2か月前、加藤シヅエさんが階段から落ちて大たい骨を折るという大事故があった。私は青ざめた。開講式に出席できないどころか、高齢での骨折は寝たきりになるかもしれないと聞かされたからである。
しかし、案ずることはまったくなかった。シヅエさんは不死鳥の如くよみがえったのである。躊躇(ちゅうちょ)する医者を尻目に、シヅエさんは手術を望み、3日後にはリハビリのため歩き始め、無事に退院。スクールの開講式には、大事をとって車椅子での参加になったが、「日本の人々と社会のために、皆さんには頑張って勉強してほしい。何より大事なのは自分の頭で考える尺度を持つこと。その尺度は歴史を勉強することで持てるようになる」と激を飛ばしてくれた。
その半年後、繰り上げ当選で参議院議員になった私に、シヅエさんはお祝いの手紙を送ってくれた。そこにはこうあった。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください