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「女が政治?とんでもない」から転換めざし25年

元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界④女性の政治参加を求め続けて……

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

「女性のための政治スクール」を開校

 日本新党で次に私が取り組んだのは、「女性のための政治スクール」の開校だった。細川さんらの承認は得たものの、当初は「スクール」にも、「なぜそんなものを」と難色を示された。とりわけ、細川さんが参議院議員の時からの秘書だった関上伸彦さんをはじめとする“熊本家臣団”は、「女性の」というだけで顔をしかめるところがあった。

1993年に始まった「女性のための政治スクール」。会場は日本新党本部だった=東京・高輪拡大1993年に始まった「女性のための政治スクール」。会場は日本新党本部だった=東京・高輪
 永田良三所長や安藤博政策副委員長の助力を得てなんとか押し切り、「仕事が増える」と最後まで抵抗する関上さんには、「カリキュラムづくりも講師依頼も生徒募集も、すべて私がしますから」と言って、しぶしぶ了承してもらったことを覚えている。

 校長を加藤シヅエさんに依頼することにした。シヅエさんは、先述した1946年の衆院選で当選した39人の女性議員のお一人である。日本新党の広報委員長である加藤タキさんの母堂であり、衆参合わせて28年間議員として活動した。

 シヅエさんは「産めよ増やせよ」の戦争の時代に、アメリカで出会ったサンガー夫人に習い、産児制限の運動を広め、各地の女性たちに避妊具を送り続けた「人物」である。その頃は、非国民とののしられ、石つぶてで自宅の窓ガラスを割られることも度々あったという。

 「高齢過ぎないか」という意見もあった。確かに、90代のシヅエさんは高齢かもしれない。しかし、人は個体差がある。私は彼女のひるまない勇気、凛々(りり)しい生き方、女性たちの自立を支援し続けた活動に魅せられ、校長にはシヅエさんしかいないと確信し、彼女の家を訪ねた。

 「円さん、女性議員を増やすことは大賛成よ。私がもう少し若かったら一緒にやりたい。ただ、私は自分を年寄りとは思わないけど、やっぱり96歳だから、娘のタキを校長にしてくれないかしら」とおっしゃる。そこで名誉校長になっていただいた。

1400人が応募、第一期の生徒は100人

 生徒募集をすると、党本部のすべての電話が問合せでパンク状態になった。文句を言い続けていた関上さんらも「おう、すごいな」と喜んでくれた。結局、1400人が応募。レポート提出を課すことにして、そこから100人を選んだ。この100人の中には、その後、原発問題で活躍することになった飯田哲也さん(男性ですが)や、今も鹿児島で女性スクールを開いている女性市議など各地で地方議員になった人たちがいる。「女性の」と銘打ってはいたが、いわゆる「地盤・看板・鞄」のない男性も歓迎。老若男女を問わなかった。

 開校したのは1993年2月初旬だったが、実はその2か月前、加藤シヅエさんが階段から落ちて大たい骨を折るという大事故があった。私は青ざめた。開講式に出席できないどころか、高齢での骨折は寝たきりになるかもしれないと聞かされたからである。

 しかし、案ずることはまったくなかった。シヅエさんは不死鳥の如くよみがえったのである。躊躇(ちゅうちょ)する医者を尻目に、シヅエさんは手術を望み、3日後にはリハビリのため歩き始め、無事に退院。スクールの開講式には、大事をとって車椅子での参加になったが、「日本の人々と社会のために、皆さんには頑張って勉強してほしい。何より大事なのは自分の頭で考える尺度を持つこと。その尺度は歴史を勉強することで持てるようになる」と激を飛ばしてくれた。

「女性のための政治スクール」の1泊2日のスクール合宿は渋谷の子どもの城で。講師は細川護熙元総理だった=〓年〓月〓日拡大「女性のための政治スクール」の1泊2日のスクール合宿は渋谷の子どもの城で。講師は細川護熙元総理だった=1996年1月24日

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筆者

円より子

円より子(まどか・よりこ) 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

ジャパンタイムズ編集局勤務後、フリージャ―ナリスト、評論家として著書40冊、テレビ・講演で活躍後、1992年日本新党結党に参加。党則にクオータ制採用。「女性のための政治スクール」設立。現在までに100人近い議員を誕生させている。1993年から2010年まで参議院議員。民主党副代表、財政金融委員長等を歴任。盗聴法強行採決時には史上初3時間のフィリバスターを本会議場で行なった。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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