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戦火の中の混乱

 セタリンさんの学生時代、カンボジアはすでに混乱の中にあった。隣国で起きたベトナム戦争はカンボジアにも影を落とし、経済も落ち込んでいった。1970年にはアメリカの後押しにより、ロン・ノル将軍がクーデターを起こして実権を掌握、事実上アメリカの“傀儡政権”と化し、汚職も蔓延した。カンボジア国内の北ベトナム軍、南ベトナム解放戦線を一掃しようと、米軍、南ベトナム軍がカンボジアに侵攻、空爆も続いた。作戦に巻き込まれた村は破壊され、人々は路頭に迷うことになる。

 一方、クーデターによって政権の座を奪われた側であるシハヌークも、事態を打開しようと動いていた。シハヌーク側が手を結んだのが、ポル・ポトたちが率いる「クメール・ルージュ」だった。彼らは「解放区」からセタリンさんの暮らす首都プノンペンに向けてロケット弾を撃ち込み、「東洋のパリ」とも呼ばれた美しい街は徐々に荒廃していった。ベトナム戦争に巻き込まれていたはずが、次第にカンボジア人同士が争いを強いられていった。

 兵隊たちが町中をうろつき、道路も至る所で封鎖されるなど、安心して外出できる状況には程遠かった。騒々しい軍の行進が外を行きかう中、セタリンさんの心のよりどころだったのが、家にあったレコードだった。「そのレコードの中に、『月の砂漠』とか、4曲の日本の歌が入っていたんですよ。その響きが当時、好きで好きで」。優しい歌声に惹かれ、そればかり聞いていたという。

奨学金試験に合格、単身日本へ

 混乱の最中ではあったものの、「先生になって家を楽にしてほしい」という母の願いもあり、高校卒業試験を優秀な成績で合格、プノンペン大学に入学した。そんなある時、友人から思いもよらない誘いを受ける。「ねえセタリン、日本に行きたいって言ってたでしょ?留学のための奨学金試験があるらしいから一緒に行こうよ」。レコードから流れる、あの歌声が頭を過った。日本の文部省の奨学金試験に見事合格し、猛反対する母を「戻ってくるから」と必死に説得した。「家族を置いてひとりで去るのは悲しかったけどね、その時は勇気が勝ったの」。プノンペン大学を1年でやめ、単身日本に飛んだ。以来、一度も「母の味」には触れることができていない。後に母はセタリンさんの弟に、「お姉ちゃんに強く反対しなくてよかった」と語ったそうだ。プノンペンの情勢は悪化の一途をたどり、富裕層の家庭ではすでに、次々と子どもたちを海外に送っているときだった。

 セタリンさんが来日したのは1974年、日本は高度経済成長の真っ只中だった。「日本の最初の印象は“いいにおい!”だったの。土の匂いがただようカンボジアとは違う、上手く言えないけれど洗練されたいい香りだ、と思ったんです」。

 日本語学校に1年通った後、東京学芸大学に進学。「当時は帰国したら文部大臣になる、なんて母に豪語していました」。学生生活は順風満帆かに見えた。ところが大学入学後、プノンペンがクメール・ルージュによって陥落した、というニュースが舞い込んできた。それはカンボジアにとって、さらなる過酷な時代の幕開けだった。

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筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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