新元号をめぐる、節操のない自分や世間にうんざり。せめて考えたいフィーバーの正体
2019年04月04日
うんざりです。
何にか?元号をめぐる節操のなさにです。
誰の節操がないのか、と言えば、まずもって私自身です。
新元号が発表される直前から、多くのテレビ番組や新聞・雑誌からのご依頼をいただきました。これまで、「元号」にかかわる本を書くなど、元号の専門家とみなされてきたからでしょう。
もちろん、そうした依頼には、できるかぎりお応えしてきました。私のような者にお声がけくださるだけで、とてもありがたく、また、事前に周囲からさんざん言われた通り「稼ぎ時」でもありました。
とはいえ、あまりにも節操がない、という忸怩(じくじ)たる思いや反省を通り越して、自分自身にうんざりしています。せめて、何かの基準や見識をもって、私の能力にふさわしい程度にとどめるべきでした。
ただし、この節操のなさは、私だけのものではなかったという、いささか言い訳めいた感想もまた、同時に抱いています。日本全国をおおった一連の「令和フィーバー」といいますか、新元号の発表をめぐる騒ぎぶりに、あまりにも節操がないと思うのです。
もちろん、異例な点はありました。
まず、普段は火曜日と金曜日に開かれている閣議ではなく、月曜日のお昼前に臨時閣議を開いて決定したこと。そして、閣議で決まったことについて(新元号「令和」ですが)、書を掲げて発表したこと。さらに、これに関連して、「内閣総理大臣談話」を首相みずからが読み上げたこと。
少なくともこの3点は、確かに、通常の政府による決定とはちがいます。
しかし、裏を返せば、その3点ぐらいではないでしょうか。繰り返しますが、この日行われたことは、政府が、元号を決めて、発表した、という、それだけだと捉えるのは、不謹慎でしょうか。
いや、そこまで言うなら、「お前(本稿筆者)が、テレビや新聞で言え」、という話です。そうです。ご指摘の通りです。だからこそ、うんざりしているのです。
私自身、何度もテレビ番組で口にしました。
「今回は、いわゆる『生前退位』のため、前回と異なり、新元号を祝賀ムード一色で受け入れられる」と。
この“決めゼリフ”は、一連の報道特別番組や、その後のニュースや情報番組でも、幾度となく聞かれたと思います。
一世一元、つまりひとりの天皇にひとつの元号。そして、天皇の終身在位。この二つを原則とする現在の日本では、新元号=崩御です。このため、昭和63年に、当時の天皇陛下が体調を崩されると、「Xデー」、すなわち崩御の日が迫っていることが確実ななか、新元号もまた、急いで準備しなければなりませんでした。
にもかかわらず、そうした準備を進めていることそのものを秘密にしなければならなかったと、的場順三さんはこれまでに何度も証言しています。
こうした状況と比較すると、今回は、確かに事情がまったく違います。まずもって、崩御による代替わりではありません。換言すれば、新元号は崩御を意味しません。
だからといって、「生前退位ゆえに、祝賀ムード一色」というのは、本当に、その通りなのでしょうか。なんのためらいもなく、このつながりをストレートに受け入れてもいいのでしょうか。
さまざまな論点は、まっさきに天皇陛下につながります。
天皇陛下は、平成28年夏、ご自身のお気持ちを述べられました。「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」と題されている、その「おことば」そのものに、まず、いくつものテーマが含まれています。
本稿は、その「おことば」をめぐる分析ではありませんので、詳述はしません。
しませんが、5月の代替わり、その前段階としての新元号の発表に際し、まずは、この「生前退位」、もしくは「ご退位」が提起した論点を、あらためて思い起こし、考え抜く必要があったのに、何よりも元号にこだわってきた私自身ができなかったと、やはりうんざりしています。
では、祝賀ムードの中身は何でしょうか?
新元号の発表を、なぜ祝うのでしょうか?
先に確かめたように、今回の新元号の発表は、政府の閣議決定に基づいています。政府による決定事項に、ここまで注目が集まる理由は、どこにあるのでしょうか。そして、その決定を、あたかも国全体で祝っているかのような状況になるのは、どうしてなのでしょうか。
政府による決定を祝う例としては、にわかに思い浮かぶのは
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