国交副大臣辞任に追い込まれた塚田氏の問題発言を契機に考えるべきこととは
2019年04月05日
凍結されていた下関北九州道路に、本年度4000万円の国直轄調査予算を計上したことについて、「安倍総理、麻生副総理に忖度(そんたく)して決めた。」と発言した塚田一郎氏が、国土交通副大臣を辞任しました。そもそもは北九州市でひらかれた福岡県知事選の応援演説の席での発言ですが、野党のみならず与党からも批判が強まり、辞任に追い込まれました。
塚田氏の発言はいったい何が問題なのか? 地方自治体の長をつとめた経験を踏まえつつ、あらためて考えてみたいと思います。
まずもってなのですが、ほとんど一言一句という形で報道されている塚田氏の応援演説は、悪口のようで大変恐縮なのですが、率直に言って品がありません。
その内容は、それが事実であるにせよないにせよ、内輪の人間関係と、その強固さゆえに、国から地元にお金が降りますという、露骨な利益誘導の話に終始しており、通常なら応援演説の中心となるはずの候補者の崇高(すうこう)な政治理念、高い能力、高潔な人格については、一言も触れられていません。
政治的言及と言えるのはたったひとつ、「『コンクリートから人へ』の流れで、とんでもない内閣があった」という、もう10年も前の民主党政権の悪口だけです。
私は塚田氏とは同郷同世代です。自民党にいたころに、塚田氏が初当選した参院選では新潟5区の選対本部長もつとめ、氏のことをよく知る一人なのですが、この演説は、端的に言って、外野からとはいえそれなりに近い距離で拝見した氏の言動、仕事ぶりからうかがわれる氏の国会議員観、政治家観をかなりストレートに反映したものに思えます。
それは、「政治家の仕事は、党内で強固な人間関係を築き、それを元に地元に利益を誘導することである」という政治家観であり、それが自民党内で決して特異なものではないことは、かつて身をおいた政党ではありますが、一国民として、極めて残念だと思わざるを得ません。
私は、一国会議員であれば、地元の代表として、いかようにも地元をアピールし、牽強付会(けんきょうふかい)だろうが何だろうが、国に対して地元の利益となる主張をしていいし、むしろするべきだと思います。
しかし、副大臣ともなれば、行政府の一員です。たとえ与党の政治家、地元の国会議員としての立場があるとしても、いったん行政府の立場を得たなら、まず行政府の一員として、国全体の利益のために、可能な限り公正に職責を果たすことが優先されるべきです。ことに各地域・各団体の利害が錯綜(さくそう)する公共事業担当の副大臣であれば、限られた予算の中で、どれを採用してどれを採用しないか、できる限り公正に決定しようとぎりぎりまで考える職責があると私は思います。
ところが、塚田氏の演説からは、そのような葛藤はひとかけらもうかがえません。
事実か事実でないかはさておくとして、今般の氏の演説は、公共事業の採否、ひいては行政の意思決定を、必要性の優先順位ではなく、有力者への忖度で決定しても特段問題ないという考え方が、自民党内で許容されていることを物語っており、これも一国民として、極めて残念だと思わざるを得ません。
上述の「露骨な利益誘導」と「忖度による行政の意思決定」は、当然それだけで大きな問題なのですが、私は、今般の氏の演説があぶり出した、それと同等、もしくはそれ以上の問題は、中央以上に与党が圧倒的多数を占める地方政治において、脈々と受け継がれてきた「(超)大型公共事業頼みの地方活性化策」が、あからさまに復活しつつあることだと思っています。
しかし、ちょっと考えてみてください。
下関-北九州間には現在、車のルートとして関門トンネルと関門橋という二つのルートがあり、鉄道用ルートとしても山陽本線用関門トンネル、新幹線用関門トンネルの二つがあります。つまり、輸送路は合計四つあるわけです。災害時の一時的バックアップに、これ以上のルートが必要というのは、正直いって牽強付会と言われても仕方がないと思います。
混雑についても、関門トンネルの老朽化が進むなか、関門トンネルが閉鎖されると、関門橋が混雑するという説明ですが、関門橋の設計通行量7万2千台/日に対して現在の交通量は3万8千台/日、関門トンネルの交通量は2万8千台/日ですので、時間によっては地方の道路としては混雑するのでしょうが、恒常的に車が動かないというような状況とは思えません。
にもかかわらず、麻生副総理の弟さんが会長を務める下関北九州道路整備促進期成同盟をはじめ、地元財界をあげてこれを推進しているのは、地元では、この道路が「地域発展のカギ」「地域経済の起爆剤」と位置付けられているからだと思われます。
現在、地方では通常必要と思われるインフラ整備は相当に進んでいます。実はそれ故に、この下関北九州道路のような(超)大型公共事業が「地域の悲願」として、ことさらクローズアップされる傾向があるのです。
現在、地方財政はおしなべて逼迫(ひっぱく)しています。各地で「悲願」とされている公共事業が実際に着手されると、まず間違いなく、地方債で調達される建設費とその後の維持管理費が地方財政を長期にわたって圧迫します。予算として使える総額が限定されている以上、そのしわ寄せは当然ながら他の財政支出の削減、具体的には今後本格的に増加する既存のインフラの修繕費や、高齢化によって拡大する福祉予算の削減に向かわざるを得ません。
また、この手の(超)大型公共事業は、前述のように「地域経済を大きく発展させる起爆剤となる」と喧伝(けんでん)されるのですが、実際のところその効果は極めてあやしいと言わざるを得ません。
人口が増え続けていた高度成長期なら、そのままでは一人当たりのインフラ量(例えば一人当たりの道路総延長)が年々小さくなるわけですので、インフラの拡充でそのボトルネックを解くことが、地域の経済発展に繋(つな)がったのは事実だと思います。しかし、少子高齢化によって急速に人口が減少しているいま、何もしなくても一人当たりのインフラ量は増加して、ボトルネックはどんどん解消されてしまうのであり、かつてのような効果は期待できないのです。
牽強付会な理屈で、過大な経済効果を期待されている(超)大型公共事業は、いざ実現するや、パッと見は豪華だけれど、実のところ特段何も生み出さず、にもかかわらず長期にわたって莫大(ばくだい)な費用を消費して地方を消耗させる「白い象」になってしまう可能性が、相当程度に高いものと私は思います。
そして実のところ、このことは霞が関の官僚も、地方自治の現場でも気づかれています。
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